僕を止めてください 【小説】
脳の病変や意識を奪うような殴打痕、失神させるような頸部の扼痕や索状痕もないこの遺体を見ていて、ふと、検査に出ない薬物の可能性が頭をよぎった。最近のはやりの危険ドラッグというやつだ。尿検査や血液検査でも簡易のものは素通りしてしまう。しかし乱用者は横紋筋融解症などで腎障害などを起こしていたり、CPKという筋肉が破壊される時の酵素や、ミオグロビンという筋肉の細胞に含まれている成分が血中に放出され、値がすこぶる高くなっている可能性もある。
「検査に出ない危険ドラッグ…可能性ってあります?」
僕は堺教授に囁いた。
「…ああ。それは無いとは言えないかな」
「CPK値とか血液の病理検査したほうがいいと思いますが」
「そうだね…うん、そうしようか。関連するかもね。警部、科捜研に危険ドラッグの鑑定依頼どうしましょうか?」
県警の警部に堺教授が尋ねた。
「可能性は?」
「ありです。なければ消去法でいいんじゃないですかね」
「今年からテコ入れがあってね。国が科捜研のサンプル増やしたそうです。そこに入っていればだけどね。まぁ、捜査上で関連性が浮かんだらその時点で科捜研に送って下さい。まだそこまでの情報はないし。1県あたりのサンプル少ないらしくてね。慎重に使ってくれって上から言われてる」
「結構…広がってますからね。危険ドラッグ」
幸村さんが口を挟んだ。警部がそれを受けて答えた。
「まぁ、今の段階ではなんとも言えん。可能性だけは考慮して捜査だな」
「了解です」
幸村さんがチラッと僕を見た。間違えて一瞬目を合わせてしまった僕は、慌てて目線を記録紙へ移した。一瞬ドクンと心臓が鼓動を主張した。なんなの? 僕は心臓をたしなめた。折角収まってきてるのに、熱が熱を呼ぶんだ。注意しろ、いいか…う…
ダメだと言ってるはずのことが、逆に強調されて来るのはどうしてなのだろうと僕は下を向いたまま唇を噛んだ。だがもうすぐ終わる。もうすぐ終わるんだ。
3時間半の解剖が幕を閉じるまで、最後の30分はとても長く、幸村さん達が帰る頃には堺教授の魔法が切れかけていた。片付けをしながら、僕は自分の震えを抑えていた。それでも昼休みにトイレで気が狂いかけていた時より、まだマシだった。