僕を止めてください 【小説】
というわけで、その日部屋に転がり込むように帰宅した僕は、倒れたまま玄関でコートとカバンを脱ぎ捨て、這うようにキッチンに行き、冷蔵庫に1リットルの半分くらい残っていた牛乳をすべて貪り飲んだ。部屋に帰ってくると、抑えていたものが開放されるので、大体立ってはいられない。冷蔵庫にもたれたままわななく手でそのまま下半身だけ服を脱ぎ(大概この場所でこうなる)、キッチンの引き出しから解剖用のメスを手探りで取り出す。
このメスは中学生のあの時から自慰に使うカッターの替わりだった。
いまだに僕は自分でするのがとても下手だ。あんな欲情的な発作が起きているのにも関わらず、これをしなければ無ければどうやっても大概イケない。多分自分で頸動脈洞を軽く圧迫して落ちてしまうのが簡単なのだろうが、そのまま死んでしまうこともあるので、実際には手出しできない。結局この欲情にまみれた制御不能な肉塊を切り取ってしまう想像…というか軽い未遂をしないとイケないのだ、今でも。それでもそうする度に少しづつイクまでの時間が延長してきている。刺激や想像に慣れていく脳の馴化が問題なのだろう。寺岡さんに最後に抱かれた時に、食いちぎられそうになってすぐにイケたのはこのせいだ。なぜか寺岡さんはそれを読み取っていた。さすが誰でもトリコにして落とせるだけの才能の人だと後から感心したが。
だが、メスは片刃の割に、諸刃の剣とも言えた。希死願望が強い時は、これで頸動脈をかき切ることを夢見てしまう。
その日の僕は色々と混乱していた。原因は幸村さんと言える。このポテンシャルで自殺の遺体を解剖して一体僕は今後どれくらい精神が持つんだろうかとか、職場の人にバレていないかとか、解剖中に手が震えるのが怖くなっていることとか、なぜ屍体でなく、手錠の幻影が僕を疼かせているのかとか、また幸村さんが僕を犯しに来るんじゃないかとか、もう頭の中は疑問符と懸案事項と絶望感で神経伝達がうまく働かないほどにいっぱいいっぱいだった。だからメスを手にした瞬間、僕はそれを身体に突き立てないようにするためにメスを握った手の手首を掴み、メスの柄を握りしめた指を心の中でなだめて開かせ、床に落とした。
一回それをやりそうになったことがある。カッターでやった時と同じように、だがその時は熱に犯された下腹部に、それを突き立てようとした…実際には突き立てた。
だが、その時は幸か不幸かまだ服を脱ぐ前で、大学の寮に帰ってきたその足で、カバンの中からメスを出して床に崩れ落ちながら自分の下腹部に突き立てていた。チノパンの生地とファスナー部分の厚みでメスは当然止まり、僕は我に返った。衝動的に刃物を叩きつけることをしてしまえるのだと、僕は二度目のその件でわかった。これは注意が必要だと。そのような教訓から、僕は希死願望にまみれながらメスを握ることはしないことにしていた。