僕を止めてください 【小説】
なだめた指からこぼれ落ちたメスが、カシャーンと金属的な音を立てて床に一度跳ねて止まった。死んじゃいけない。死んじゃいけないと思えば思うほど、身体が狂躁に取り込まれていく。膝を立て、頭を抱え、目を見開いたまま深呼吸をしようと口を開く。その口からは喘ぐ息しか聞こえてこない。下腹から突き上げてくる波が横隔膜を押し上げて、深い呼吸をすることが出来ない。早く自分で上り詰めて射精して、そのまま寝てしまえばいいだけなのに。昼のトイレの中の状態がそのまま復活している。こうなると耐えているだけで身動きが取れなくなる。耐えれば耐えるほど膨れ上がっていくなら、いっそ…
僕は床に落としたメスを右手で探した。金属の感触が小指に当たり、僕はそれを掴んだ。どこでもいい。どこか切ろう。僕にだって鈍いが痛みくらいはある。痛みは僕を狂気にはいざなわない。命に別状のない自傷がある種のガス抜きとなればそれでいい。気を逸らせればいい。どこを切ろうか…僕は手っ取り早く、顕になった左脚の大腿部の内側の皮膚にメスの刃先を当てた。そして躊躇なくツプっと皮膚を突き刺した。
「つっ!」
よく切れるメスのお陰で2、3mmは刃先が入っただろうか? 傷口からツーっと血が真っ赤な筋を引いて腿を伝った。ヒリっとした痛みが腿の内側に走った。張り詰めていた焦燥感が緩んでいく。しかし、希死願望が引いていくと共に、身体の中にうねるような性感が押し寄せてきた。僕は悶えながらメスを再び取り落とし、そのうねりに身体を取られて床に転がった。
「ああ…うあ…ああ…」
どうしようもなくて自分の尖った性器を両手で握りしめ、床をのたうち回って喘いでいた。熱で耳の奥に金属が焼けるようなジージーという音が響き、頭の中が朦朧としていく。遠くで違う音がなにか鳴っている。電子音のような…目覚まし時計…アラーム…違うかな…あまり聞かない音だ…
「…おい…鍵くらいかけろ…不用心だぞ」
いきなり聞いたことのある声がした。
「岡本君…」
「だ…れ…?」
「やっぱり…こんななってんじゃねーか!」
幸村さんだった。