僕を止めてください 【小説】
歩き始めて数十歩で、ポケットに入れたばかりの携帯が鳴った。職場かな? それとも。立ち止まって携帯を出した。
「はい、岡本です」
「……裕くん」
「清水先生ですか」
「うん。ごめん」
「どうしたんですか」
例の、地の底から吐き出された声がした。絶不調時の清水センセの声だ。
「出てくれたんだね。ありがと」
「ああ、コインランドリーの乾燥機の待ち時間なんで、大丈夫です」
「コインランドリーなんか行くんだ。そうか、雪だもんね」
「ええ。洗濯物が溜まってたので、どうしても洗濯しなきゃなんなくて」
「そうなんだ。調子、どう?」
絶望感で生きていたくなくなってました、とは言わないことにした。少なくとも今はちょっとは紛れているし、絶不調な人を無駄に心配させたくはない。
「あぁ、どうですかね。掃除したり洗濯できたりしてるんで、落ち着いたのかも知れません。よく寝ましたし、少なくとも今は混乱はしてません」
「そう、なら良かった。おとといの電話はかなり心配した」
「すみません。で、先生は大丈夫なんですか?」
僕への心配で時間を割きたいわけではなかろう、と、僕は本題に入った。
「身体は…問題ないかな。メンタルは……ツラいな」
「なんでですか?」
それを聞いた清水センセは苦笑しながら答えた
「君がいないから。簡単なことだよ」
「そうですか」
「で、耐えらんなくて電話しちゃった。堪え性がないっていうかさ……いや、幸せすぎたんだよね、昨日がさぁ」
「僕抜きでいろいろ考えたかったのでは?」
「それはもうずーっとやってたよ。それでこの体たらく」
「ちゃんと寝たんですか?」
「それは寝れた。不思議だけど、僕もすっごい良く寝た。今朝は早く起きたし。朝、窓の外見たら雪が降ってて、ああ、故郷に居るんだなって、感慨深くて。生まれた町で君と逢ってたのが不思議で……とても不思議」
清水センセはそういうと少し黙った。
「あの、メンタルがツラいのは困ります」
「なんで?」
僕は危惧していることを告げた。ツラさを重ねて誰かさんみたいに鬱になったりして、死んだりされるのはこっちが困る。
「それが昂じて鬱で死なれでもしたら、僕が大変なんで」
「大丈夫だよ。君との約束を破るなんて選択、僕にはないから。あと、君がこんな近くに居てくれるのに自分から死ぬなんて有り得ないよ」
「それならいいんですが。もし万が一死にたくなったらその時は遠慮なく僕を殺してから死んで下さい。あ、これって心中ではないですよね?」
「心中? 心中ではないね」
「ですよね。ただ、世間的にはどこから見ても心中に見えますが」
「わかってないなぁ。君を殺した時点で君の屍体が僕のものになるんだったら、僕はただ幸せなだけだよ。どういう結果にしろ僕は自分からは死なないよ」
「では、メンタルは免疫に影響しますから、死病には気をつけて下さい」
「わかったわかった。死病に見舞われたら体力の残ってるうちに君をちゃんと殺してあげるから」
清水センセはクスッと笑った。声のトーンが少し軽くなっている。
「あーあ、ちょっと電話出来ただけでも、こんな楽になるんだね。さっきまで吐く息に鬼火が灯るかってほど悶々としてたのに」
「口から鬼火が出てたらすでに死人ですよ」
「死にそうだったっていう詩的な表現なんだけど」
「僕は乾燥機の料金を100円多く払うかどうかで悶々としてましたけどね」
「えぇ? 100円? そっちは爪に鬼火が点ってるなぁ、あはは」
また笑っている。機嫌が良くなったようだ。