いつか本当の自分に出逢うまで
青葉の試験は国語の点数が重視されていて、おかげで私は合格できたようなものだった。
「実家は県外ですか。ははは、確かに遠いですね」
納得したように笑うと、三浦さんはそれ以降、一度も青葉の話をしてこなかった。だから私も、敢えて学生時代の話をしなかったんだ。
(あの時、もう少し学生の頃の話をしてたら、私にレンアイ経験ない事も、話せたかもしれないな…)
運ばれてきたカフェモカの甘い香りと口当たりを味わいながら、カップから立ち上る湯気を見つめてた。
(三浦さん…原稿出来てないって言ったら怒るかな…。次のお仕事、もらえなくなったらどうしよう…)
幸いな事に、仕事はA出版以外にも幾つかある。一社の仕事が無くなったからと言って生活には困らない。
でも私は、A出版の仕事がいつも一番好きで楽しみだった。大した制約もなく、自由に書かせてくれて、書き直しも殆ど言われない。
他社のようなイメージを提示される事もなく、思ったままを綴っていける。それが気に入っていた。
だけど、今回のテーマだけは上手く書けなかった。
「はぁ〜…」
思わず大きな溜め息をついてしまう。レンアイ経験のない自分は、何か大事なモノが足りない、欠落人間のような気がしてならなかった。
「大きな溜め息ですね、大丈夫ですか?」
聞き慣れた声に驚いて顔を上げた。
「…三浦さん……?」
白いワイシャツにネクタイを締めて、スッキリと髪を短く切っている人を、すぐに本人だとは思えなかった。
「こんばんは、お久しぶりです」
笑いながら席に着くと、彼は店員を呼びコーヒーを注文した。それから私の方を向き、間髪入れず聞いてきた。
「ミサトさん、原稿出来てないですね?」
ギクッとしたけど、取り繕ったって仕方ない。あっさり認めよう…。
「すみません…どうしても書けなくて…」
カ〜ッと、身体中の熱が顔に集中したように熱くなった。
「私……その、これまで誰かを好きになった事なくて…ずっと…その…だから、恋とか愛とか、よく解らなくて………」
あーもう、我ながら情けない台詞。二十五歳の若い女性がこんな事言うなんて、恥ずかしいったらない。
「ホントに…すみません……」
恥ずかしさと情けなさで、生まれて初めて、男の人の前で涙が零れそうだった。
「言い訳にしかなりませんけど…何とか書こうと努力はしたんです。……でも、やっぱり、何も思い浮かばなくて……」
大好きなA出版の仕事がこれで無くなってしまうかと思うと、それ以上は何も言えなくなった。奥歯を噛み締め、ぐっと泣くのを堪えた
。
「美里さんは、正直な人だな」
ぼそっと聞こえた一言に、ドキッと胸が鳴った。
「えっ⁉︎」
びっくりして顔を上げる私に、三浦さんは笑いかけた。
「ミサトさんの本名、実はもうずっと前から知ってたんです」
照れたような彼の表情を見つめて黙り込んでしまった。そんな私の耳に、信じられない言葉が届いた。
「本城美里さん、結婚を前提に僕とお付き合いしてもらえませんか?」
とても真面目な顔で、真っ直ぐ私を見てる。その瞳から目が離せなかったーーー。
(……あの後、三浦さんとどんな話をしたんだっけ……)
デスクの前でぼんやりしていた私は、急に我に返った。
三浦さんの言葉は突然過ぎて、何も言葉が出なくて、大体、なんでいきなり結婚を前提になのか、全くわからなくて……
ドキッ…
聞いた事もない言葉だけに、思い出しただけで冷や汗が出た。
(三浦さん……確か、こう続けたよね……)
「実は今日、親に言われて嫌々ながら見合いというものをしたんです。だからこんならしくもない格好してるんですよ」
笑いながら、届いたコーヒーを一口飲み込んだ。
「相手の方はおしとやかで、慎ましやかな方だったと思うんですけど、正直、何も覚えてなくて。こっちは最初から顔見せだけのつもりだったし、変に気も遣わずにいたら話も弾まなくて…」
自分の事を呆れるように話し、言い訳ですねと付け加える。そんな彼の様子が、少しだけ微笑ましかった。
「…僕ね、大学時代、美里さんと合コンで一度会ってるんですよ」
声のトーンを変え、三浦さんが私を見た。
「えっ…」
「大学の三年の時だったかな、文芸サークルで同人誌作ってる奴らと合コンしたの覚えてますか?」
「文芸サークル……?」
大学時代に入っていたサークルのことを思い浮かべた。確かに一度だけした事がある。
(それに、三浦さんが……?)
いたっけ?と首をひねる私を見て、彼が心配そうにしてる。どうやら、この人にとっては、私が合コンのことを覚えているかどうかの方
が問題らしい。
「あの…その合コンって、常葉大の方とした時のですよね?」
答えに満面の笑みを浮かべた彼が、急に喋り始めた。
「そうそう、そうです!僕もあの時、メンバーの一人だったんですよ。良かった〜覚えていてくれて」
心から喜んでる三浦さんには悪いけど、私は中身まではよく覚えていない。
「そこで、好きな本について話したの覚えてませんか?美里さんの好きな本誰も知らなくて、ショック受けてたとこに僕が呼ばれて、知ってるって話をしたら君がとても喜んで。その後、少しだけ話したんですよ。二人で」
(そうだったけ?)
詳細な三浦さんの記憶に対し、私の記憶はアバウト。
でも、その頃好きだった本は覚えている。確か作者はイギリス人で、本のタイトルは……
「『いつか本当の自分に出逢うまで』」
その声にハッと彼を見た。
「思い出しました?」
私の表情を読んだように笑いかけてくる。その顔にどことなく覚えがあった。
「もしかして…あの時の人……?」
誰も知らない本の事を、ただ一人知ってる人がいた。おかげで、すごくホッとした。
「あれ…三浦さんだったんですか……?」
ここまで来ると、さすがの私も呆れてくる。今の今まで、ちっとも思い出さなかった。
顔を見合わせ、思わず笑みがこぼれた。
「あの時、僕、美里さんに一目惚れだったですよ」
赤い顔をしてこっちを見てる彼に、目が釘付けになった。
「目をキラキラさせて、エッセイ書くのが好きって言ってた。飾り立てもせず、素のままで話してて。それがとても感じ良かった」
面と向かって男性に褒められた事なんてないから、どう反応していいかわからない。俯くことも出来なくて、やたら顔だけが熱かった。
「うちの雑誌でエッセイ連載が決まった時、ペンネーム見て、もしかしてあの時の子かなと思ったんです。だから編集長に無理言って担当にしてもらって」
合コンから四年、私はすっかり忘れていたけど、雰囲気が一緒だったのが嬉しくて仕方なかったと彼は続けた。
「大学を卒業して三年も経つし、さすがに彼氏の一人くらいいるだろうと考えてたので、もう諦めようかと思ってたんですけど、さっきの話を聞くと黙っていられなくて…」
ホッとした笑顔が一瞬、砕けたものに変わった。それからすぐに、キリッと引き締まった。
「本城美里さん、こんな僕ですけど、付き合ってくれませんか?結婚はまあ、今は置いとくとして、とにかく彼女になって下さい」
ストレートな彼の言葉に嘘はないと感じてた。何よりあの合コンの時、私も少しはときめいたんだ。
彼の優しい人柄に…。
(この人なら、いいよね…?)
自分に問いかけた。
「…はい…お願いします」
小さな声で返事した。優しい表情で、彼が私を見つめてる。
ドキドキ……
初めて聞く胸の高鳴り。もしかして、これが恋…?
「実家は県外ですか。ははは、確かに遠いですね」
納得したように笑うと、三浦さんはそれ以降、一度も青葉の話をしてこなかった。だから私も、敢えて学生時代の話をしなかったんだ。
(あの時、もう少し学生の頃の話をしてたら、私にレンアイ経験ない事も、話せたかもしれないな…)
運ばれてきたカフェモカの甘い香りと口当たりを味わいながら、カップから立ち上る湯気を見つめてた。
(三浦さん…原稿出来てないって言ったら怒るかな…。次のお仕事、もらえなくなったらどうしよう…)
幸いな事に、仕事はA出版以外にも幾つかある。一社の仕事が無くなったからと言って生活には困らない。
でも私は、A出版の仕事がいつも一番好きで楽しみだった。大した制約もなく、自由に書かせてくれて、書き直しも殆ど言われない。
他社のようなイメージを提示される事もなく、思ったままを綴っていける。それが気に入っていた。
だけど、今回のテーマだけは上手く書けなかった。
「はぁ〜…」
思わず大きな溜め息をついてしまう。レンアイ経験のない自分は、何か大事なモノが足りない、欠落人間のような気がしてならなかった。
「大きな溜め息ですね、大丈夫ですか?」
聞き慣れた声に驚いて顔を上げた。
「…三浦さん……?」
白いワイシャツにネクタイを締めて、スッキリと髪を短く切っている人を、すぐに本人だとは思えなかった。
「こんばんは、お久しぶりです」
笑いながら席に着くと、彼は店員を呼びコーヒーを注文した。それから私の方を向き、間髪入れず聞いてきた。
「ミサトさん、原稿出来てないですね?」
ギクッとしたけど、取り繕ったって仕方ない。あっさり認めよう…。
「すみません…どうしても書けなくて…」
カ〜ッと、身体中の熱が顔に集中したように熱くなった。
「私……その、これまで誰かを好きになった事なくて…ずっと…その…だから、恋とか愛とか、よく解らなくて………」
あーもう、我ながら情けない台詞。二十五歳の若い女性がこんな事言うなんて、恥ずかしいったらない。
「ホントに…すみません……」
恥ずかしさと情けなさで、生まれて初めて、男の人の前で涙が零れそうだった。
「言い訳にしかなりませんけど…何とか書こうと努力はしたんです。……でも、やっぱり、何も思い浮かばなくて……」
大好きなA出版の仕事がこれで無くなってしまうかと思うと、それ以上は何も言えなくなった。奥歯を噛み締め、ぐっと泣くのを堪えた
。
「美里さんは、正直な人だな」
ぼそっと聞こえた一言に、ドキッと胸が鳴った。
「えっ⁉︎」
びっくりして顔を上げる私に、三浦さんは笑いかけた。
「ミサトさんの本名、実はもうずっと前から知ってたんです」
照れたような彼の表情を見つめて黙り込んでしまった。そんな私の耳に、信じられない言葉が届いた。
「本城美里さん、結婚を前提に僕とお付き合いしてもらえませんか?」
とても真面目な顔で、真っ直ぐ私を見てる。その瞳から目が離せなかったーーー。
(……あの後、三浦さんとどんな話をしたんだっけ……)
デスクの前でぼんやりしていた私は、急に我に返った。
三浦さんの言葉は突然過ぎて、何も言葉が出なくて、大体、なんでいきなり結婚を前提になのか、全くわからなくて……
ドキッ…
聞いた事もない言葉だけに、思い出しただけで冷や汗が出た。
(三浦さん……確か、こう続けたよね……)
「実は今日、親に言われて嫌々ながら見合いというものをしたんです。だからこんならしくもない格好してるんですよ」
笑いながら、届いたコーヒーを一口飲み込んだ。
「相手の方はおしとやかで、慎ましやかな方だったと思うんですけど、正直、何も覚えてなくて。こっちは最初から顔見せだけのつもりだったし、変に気も遣わずにいたら話も弾まなくて…」
自分の事を呆れるように話し、言い訳ですねと付け加える。そんな彼の様子が、少しだけ微笑ましかった。
「…僕ね、大学時代、美里さんと合コンで一度会ってるんですよ」
声のトーンを変え、三浦さんが私を見た。
「えっ…」
「大学の三年の時だったかな、文芸サークルで同人誌作ってる奴らと合コンしたの覚えてますか?」
「文芸サークル……?」
大学時代に入っていたサークルのことを思い浮かべた。確かに一度だけした事がある。
(それに、三浦さんが……?)
いたっけ?と首をひねる私を見て、彼が心配そうにしてる。どうやら、この人にとっては、私が合コンのことを覚えているかどうかの方
が問題らしい。
「あの…その合コンって、常葉大の方とした時のですよね?」
答えに満面の笑みを浮かべた彼が、急に喋り始めた。
「そうそう、そうです!僕もあの時、メンバーの一人だったんですよ。良かった〜覚えていてくれて」
心から喜んでる三浦さんには悪いけど、私は中身まではよく覚えていない。
「そこで、好きな本について話したの覚えてませんか?美里さんの好きな本誰も知らなくて、ショック受けてたとこに僕が呼ばれて、知ってるって話をしたら君がとても喜んで。その後、少しだけ話したんですよ。二人で」
(そうだったけ?)
詳細な三浦さんの記憶に対し、私の記憶はアバウト。
でも、その頃好きだった本は覚えている。確か作者はイギリス人で、本のタイトルは……
「『いつか本当の自分に出逢うまで』」
その声にハッと彼を見た。
「思い出しました?」
私の表情を読んだように笑いかけてくる。その顔にどことなく覚えがあった。
「もしかして…あの時の人……?」
誰も知らない本の事を、ただ一人知ってる人がいた。おかげで、すごくホッとした。
「あれ…三浦さんだったんですか……?」
ここまで来ると、さすがの私も呆れてくる。今の今まで、ちっとも思い出さなかった。
顔を見合わせ、思わず笑みがこぼれた。
「あの時、僕、美里さんに一目惚れだったですよ」
赤い顔をしてこっちを見てる彼に、目が釘付けになった。
「目をキラキラさせて、エッセイ書くのが好きって言ってた。飾り立てもせず、素のままで話してて。それがとても感じ良かった」
面と向かって男性に褒められた事なんてないから、どう反応していいかわからない。俯くことも出来なくて、やたら顔だけが熱かった。
「うちの雑誌でエッセイ連載が決まった時、ペンネーム見て、もしかしてあの時の子かなと思ったんです。だから編集長に無理言って担当にしてもらって」
合コンから四年、私はすっかり忘れていたけど、雰囲気が一緒だったのが嬉しくて仕方なかったと彼は続けた。
「大学を卒業して三年も経つし、さすがに彼氏の一人くらいいるだろうと考えてたので、もう諦めようかと思ってたんですけど、さっきの話を聞くと黙っていられなくて…」
ホッとした笑顔が一瞬、砕けたものに変わった。それからすぐに、キリッと引き締まった。
「本城美里さん、こんな僕ですけど、付き合ってくれませんか?結婚はまあ、今は置いとくとして、とにかく彼女になって下さい」
ストレートな彼の言葉に嘘はないと感じてた。何よりあの合コンの時、私も少しはときめいたんだ。
彼の優しい人柄に…。
(この人なら、いいよね…?)
自分に問いかけた。
「…はい…お願いします」
小さな声で返事した。優しい表情で、彼が私を見つめてる。
ドキドキ……
初めて聞く胸の高鳴り。もしかして、これが恋…?