Roman
「……か、……箜之坂!」
「………はい」
担任に呼ばれ、我に返る。
いつの間にか終わっていた板書。辺りからはクスクスと小さな笑いが起きていた。何度か玄の名を呼んでいたのであろう。しかし、玄はそれに気付かなかった。
――否、気付こうとしなかっただけだ。
「お前の耳は何の為に付いているんだ!」
「必要な話を聞くためですが」
どっと教室中に笑い声が響き、担任の額に皺が寄る。
「っ、騒がしい!…箜之坂、放課後生徒指導室に来るように」
それだけ吐き捨てると、くるりと再び背を向け黙々と新たな問題を板書し始めた。
この一年間、玄はずっとこんな学校生活を送っていた。言いたいことを言い、したいことをして。もし沙耶がいた頃にこんなことをしたとすれば、直ぐ叱られていただろう。
沙耶はもういない。沙耶は死んだのだ。しかし、玄は彼女の遺体を見ていなかった。事故のため沙耶の遺体は切り刻まれ、人に見せれるような姿ではなかったらしい。
葬式も挙げたというのに、沙耶の姿を自らの眼球で確認していないためか、あれから一年経った今も玄は突き付けられた現実を受けとめられずにいる。
沙耶は今も何処かで息をしているのではないか。
沙耶が死んだということは解る。玄の傍から彼女がいなくなることは、死ぬ時以外無いと二人で誓ったから。けれども沙耶が死んだという―――感覚が無い。だから彼女はまだこの世界に存在しているのじゃないか。
そんな根拠の欠片も無い架空の想像が、玄の脳裏を駆けて止まなかった。
「沙耶」
知らぬ間に玄の頬を掠める一滴の哀しみ。呟かれた言の葉は誰の耳にも届かない。