Crescent Moon



どうしてもそこに座られたくなくて、不満を素直に口に出せば、冴島は私にだけ見える様に皮肉な笑みを浮かべた。



他の人には、決して向けない微笑み。

それが、例え口の端が吊り上がった、嫌みなものであったとしても。


私にだけ。

私だけが知っているその微笑みが、私の心臓を一際大きく跳ねさせる。



ドクン。

ドクン、ドクン。


素早く反応した心臓が、勢いよく全身に真っ赤な血を巡らせる。



あの男が笑った。

大嫌いな男が、私にだけは皮肉なものでも、本物の笑みを見せている。


その事実が、心をグラクラと揺さぶる。



(だから、だから………嫌だったのに。)


こうなることなんて、初めから分かっていた。


どんな形であれ、この男が傍に来てしまったら、私はきっと動揺してしまう。

普段通りのクールさなんて、保っていられなくなる。


分かっていたからこそ、隣にだけは座って欲しくなかった。

隣に座って、私の心の天秤を揺らせて欲しくなかったのだ。



あの日。

夕暮れ時の教室で冴島とキスをした日から、ずっとこの男を避けてきた。


事務的な連絡でないことは、なるべく話さない様にして。

必要ないことは、口にしない様にして。



理由なんて、簡単だ。


気まずかった。

あんなキスをしておいて、平然とした顔をしていられる自信が、私にはなかった。


あの男を気に入っている、環奈のことを考えてのことでもある。



同じクラスの担任と副担任になってしまったことを呪いながら、恨みながら、今日までの間を何とかやり過ごしてきたのだ。


だけど、まさか今日、こんな風に冴島の方から近付かれるなんて。

ふいうちみたいに、目の前に立たれてしまうなんて。


こんな狭いバスの中では、逃げ場所なんてないに等しい。

逃げたくても、どこにも逃げられない。


状況は、自分で思っているよりも最悪だ。



「ここ、空いてますよね?」

「いや、だから空いてないの。荷物を置いてたって言ってる………」

「荷物なら、上に載せておきましたよ。瀬川先生に、重たい荷物を持たせる訳にはいきませんので。」



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