Crescent Moon



親切ぶって、そんなことを言い出す。


そうじゃない。

そうじゃないんだって。


わざとそこに置いておいたって気付いているくせに、座ろうとしないでよ。



「ここ、空いてるんですよね?失礼します。」


憎らしいほどの笑顔で再びそう聞いてから、何事もなかったかの様に、冴島は私の隣にゆったりと座った。


嫌だ。

嫌だ。

嘘でしょ。


冴島が座った途端に、無情にも動き出すバス。



こうして、今に至る。







「………。」

「………。」


相変わらず、私と冴島の間には会話らしい会話なんてなかった。

圧迫感さえ感じてしまうほど、そこに広がるのは無言の空間だけだった。


何も話すことがないなら、どこか他の人の隣にでも座ってくれれば良かったのに。

私なんかの隣に座るよりも、ずっと楽しい時間を過ごせたであろう。


私の隣に座っても、私はこの男のことが苦手なのだ。

私から話しかけることがないことくらい、冴島は分かっていたのではないか。



何もすることがなくて、話をすることすらなくて、窓際に追いやられた私はぼんやりと窓の外を眺める。


早く着いて。

早く、早く目的地に着いて。


ただ、それだけを願って。



ああ、どうして、こんなことになってしまったのだろう。

どうして、こんな事態に陥ってしまったのだろう。


こんなはずじゃなかった。

私の中の予定では、こんな風になるはずじゃなかった。


私の心臓は、未だにその主張を強めている。

ドクンドクンと、痛いくらいに締め付けて、私を苦しめていく。



分かってる。

分かってるわよ。


認めたくはないけれど、もうどこかで諦めてる。



私は、冴島のことを意識している。

間違いなく、この男のことを特別視しているのだ。


それが好意的なものではなかったとしても、他の男の人と比べて異次元に行っていると言っていいほど、冴島のことを違う目で見ている。



無理もない。

仕方ないとも思う。


流されてしまっただけとはいえ、隣にいる男と私はキスなんてしてしまったのだ。


意識したくなくても、意識してしまう。



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