恋のカルテ
午後、私はトキさんを乗せた車いすを押して、丘の上の桜の木を目指した。
吹き抜ける風は少し冷たくて、私はまくり上げていた白衣の袖をスルリと降ろした。
「寒くないですか、トキさん」
「寒いさ、でもそれも心地いい。この季節を迎えることは僕にはもう、ないんだからさ。だから大丈夫だよ、ありがとう」
「はい」
こんなふうに患者の言葉を受け止められるようになったのは、いつからだろう。
今までは、命は救うものだと思っていた。
オペをして、延命をして、どうにか消えそうな命の灯を守ろうと必死だった。
でも、ここではまるで逆だ。
ただ、求められるままに手を添えて、穏やかに緩やかに消えゆく命を私たちは見守るだけ。
初めは戸惑いや葛藤があった。
こちらでの恩師が、どうして私に終末期医療を勧めたのか疑問で仕方なかった。
でも今は、ここで仕事が出来てよかったと思える。
だって、旅立ちまでの貴重な時間に、こうして寄り添えるんだから。
そして、佐伯先生が私に伝えたかったことが、とても良く理解できたから。