耳に残るは
歩きだした5歩目で、早くも彼の申し出を辞退したことを悔んだ。

「アキラくん一気飲みー!!」

さきほどの笑い声の集団が、道を半分ふさぐように立ち止まりビールをあおり始めたからだ。

こんな道端で酒を飲むなんて。しかも一気飲み。

案の定、彼らは酔っ払い集団だった。しかも、タチの悪い集団だ。

車道を挟んだ反対側の道に移ろうにも、車の通りもそこそこあっていまさらルート変更ができない。
私が仕方なく、厭そうに歩くほかの人たちにならってなるべく彼らと距離を取る努力をしながら
横を通り過ぎようとしたその瞬間。

ビールの空き缶がいきなり飛んできた。

「わっ!!」

とっさにバッグを盾にしたので当たらなかったが、周りもざわつく。
足元に、拉げたビールの空き缶がカラカラと転がった。
驚きすぎて、心臓が早鐘のように打っている。

「あー、おねえさーん、ごめんね~!!」
フラつきながら男が一人、こちらに向かって歩いてきた。
走り去りたいのに、さっきから体が固まってしまって動かない。
どうしよう。どうしよう。

締まりのない、ヘラヘラした顔の男が近づいてくる。

「あれー?聞こえなかったぁ?ごめーんってぇ・・・うぉっとぉ!!」
あと数歩で私の目の前に来ようとしていた男が何もないところで突然躓き、両手を広げてこちらに倒れこもうとしてくる。

「きゃあっ・・・!!」

私は、ぎゅっと目をつぶって体を庇いながら固まる。
息をのみ、体を強張らせた。

・・・あれ・・・?
酒臭い息とともに抱きつかれる覚悟をしていたのに、数秒経ってもそれがない。
恐る恐る片目だけ開けてみると、気持ち程度だが眼前が暗くなって、足元に誰かの影が落ちている。

何が起こったのかがわからず顔をあげると、視界に入ったのはストライプのシャツの大きな背中。
いつの間に来たのか、私と男の間を立ちはだかるようにしている人。

「こんな人通りのあるところで酒飲んでたらダメだよ。
 このおねーさんもびっくりして怖がってるだろ?」

低い声でそう言って、倒れこんでこようとしていた男の二の腕を下からすくうようにつかみ、
立たせているのは川田さんだった。

男の図体は川田さんに比べると小柄のようで、彼の背中に隠れて手足しか見えない。
川田さんは終始、男を見下ろしたまま淡々と話していた。

「・・・そんなに酔っぱらって大丈夫か?ここから移動しなよ。
こんな飲み方するんだったら、倒れてもいいように家飲みにしとけ」

そう言いながら男の二の腕をつかんでいるほうの川田さんの腕が、小刻みに揺れている。
ギリギリと手の力を込めていることに気づいた。

「いっ!痛い痛い!わかった、わかったから!手、離してください・・・」

「あ、ごめん。つい力が入った。じゃ、気をつけて」

川田さんが、言葉だけなら優しそうなことを言いながら、反対側に突き飛ばすように男の腕から手を離す。

男が、周囲の空気が非難めいたものになっていることにようやく気づいた仲間のいるところに
逃げ帰っていく後ろ姿が見えたところで、
川田さんが振り向き、やっぱり私を見下ろして言った。

「行くよ」

そのまま手首よりも少し上を掴まれ、引っ張られるように歩いた。

歩幅の広い彼がズンズンと歩き、私はほとんど小走り状態で後に続く。

行くってどこに?と聞きたいのに、足元に意識を集中させなければ縺れて転んでしまいそうで、
話せない。
何より、彼の背中が無駄口叩くなと言っているようで何も言えなかった。

そのまま黙って歩くこと数分。
地下鉄の入り口が見えてきたのにそこは通り過ぎ、駅の並びにある、車が一台もない駐車場の
そばまで来てようやく歩みが止まる。

そのまま駐車場の壁際に立たされた。彼も横に並ぶように立つ。
小走りも長く続けると息が切れ、肩で息をしていた私は
壁にもたれ、深呼吸をして息を落ち着かせると呟いた。

「こ、怖かった・・・」

それから不意に、まだお礼を言ってなかったことを思い出した私は、
壁から背中を離して真横の彼のほうに体の向きを変える。
「あ!あの、助けていただいてありがとうござい…ました…」
勢いよく言いかけた言葉は、すぐに尻すぼみになって消えた。

彼の横顔を見るはずが、彼も私のほうに体を向けて見下ろすように無言で
立っていたからだ。

川田さんの背中ごしにある街灯が逆光のようになって、
私を見下ろす彼の表情はよく見えない。
けれど、彼の異様な雰囲気は感じて、戸惑った。
何か、まずいことしただろうか。
彼と向き合って立ったまま不安になってきたそのとき、頭の上から声が響いた。

「・・・なにやってんの?」

「え?」

なにが?
顔を上げて彼を見た。

「だから、なにやってんのって言ってんの!なんか歩いてったあたりが
ザワついたっていうか、空気変わったように見えたからイヤな予感して行ってみれば、
コントばりの酔っぱらいに絡まれてるし!」

「ひっ、ご、ごめんなさい!」
肩をすくめてとっさに謝った。

「言わんこっちゃない!危ないとこだったじゃないか!」

一気にまくし立てる彼に驚いて目を見はった。
そうしてるうち、暗がりに目が慣れてきてわかった彼の表情。
怒ってる。

どうしたらよいかわからず沈黙していると、静かな駐車場の壁づたいに一台立つ、
自動販売機のモーター音だけが響く。

何これ。なんで私、怒られてるの?
私が悪いの? 絡まれたのは私で、悪いのは酔っぱらいでしょうが!!
さっきの恐怖と、そのあとの安堵と、いま怒られていることに感じている理不尽さ。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって頭を駆け巡ると、目に涙がたまってきた。

でも、何か言ったら涙がこぼれてしまいそうで、言葉が出ない。

それに、助けてもらったのは事実なんだから、泣いたらダメだ。

そう思って眉間にしわを寄せて黙ったまま、涙がこぼれおちるのを我慢していると、
彼が口調を和らげて言った。

「…ごめん。絡まれたのは山野さんのせいじゃないよな」

「・・・あの、いえ。助けてくださって。本当にありがとうございました」

「いや、ショック受けてるとこにこんな言い方して悪かった。
でも、酔っぱらいがフラフラ山野さんのとこに近づいてるの見て、
マジで心臓止まりそうだったんだよ」

その言葉に、私はゆっくりと俯いていた顔を上げて彼の表情を見る。
私を見下ろす、まなざしに滲むのは心配の色。
眉毛が少し下がった、困り顔。
ああ、本当にこの人は心配してくれてたんだ。

「あんな思いするくらいなら、もっと強く『送る』って言えばよかったよ」

そう言ってくれる彼を見ていたら急に、胸がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
思わず、その日つけていたネックレスのペンダントヘッドと一緒に、カットソーの
襟元をギュっと握りしめる。

何か、言わなきゃ。と思っても、さっきから同じような言葉しか言えない。出てこない。
「ありがとう、ございました。来てくださってよかったです・・・」

「ケガとか、してない?何もされてないよな?」

「はい、大丈夫です。」

彼が、首をかしげるようにして私を覗き込んで聞いてきた。

「ほんとに?」

「・・・ほんとの、ほんとに。」

その声の、優しい響きに。彼を安心させるために。
私がほんの少し、ほほ笑んで見せるとようやく、彼は笑顔になった。

「そっか。よかった。じゃあ、帰るか。っていうか変に引きとめちゃったな。ごめんな」

「え?いや、そんな。私がすみませんでした」

「山野さん、地下鉄って言ってたよな? そこの入り口からで良いの?」

「ハイ。そこから降ります」

「わかった、行こう」

「え?ひとりで・・・」

言いかけた言葉を遮るように、彼が顔をしかめた。

「この流れでまだ言うか?今日はダメだ。改札まではついてくからな。口答え禁止!」

そう言い放って、さっき通り過ぎた入り口に向かってサッサと歩きだす。

私は、2、3歩歩いてすぐに振り向き「ホラ、早く行こう」と言う彼の横に小走りで移動し、
おとなしくついていくことにした。

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