耳に残るは
時刻は16時すぎ。

「・・・運、悪すぎ・・・」

私は一人、呟いていた。

「17時から契約書の調印に来る予定だったお客さんがもう来ちゃった!予定変わったから
早く来たって!捺印請求してた契約書、そっちにあるよね!」

新宿営業所の所長から入った泣きの電話を、たまたま取ってしまったのが10分前。

もともと、所長が「営業に書類を取りに行かせる」と言っていたのを
それでは往復で時間がかかってしまうから、と私が届けに行ったのがいけなかった。

ついさっき、走って来たときの汗もまだ引いてないというのに。

所長からの感謝の言葉に少しだけ悦に入りながら事務所を出て、さあ帰ろうと
雑居ビルのガラスの玄関扉に視線を向けた瞬間、大粒の雨が見えて唖然とした。

雨粒は、無数の円を描きながらアスファルトを打ちつけている。
その様子を眺め、私は考えていた。

さて、どうしよう。

すぐに止むならば、このまま待ちたいところだ。
でも、30分待っても止まないかもしれないかもしれない。
出先で仕事をしているわけでもないのに、長く席を外すわけにもいかない。

…仕方ない。

自分の足元にため息をひとつ落として前に一歩踏み出した。
自動ドアが開けば、雨音がひときわ大きく聞こえる。

正面玄関の軒先で、今度は深呼吸を一つ。

待っててもキリがないなら、行くっきゃない。

私は土砂降りの雨の中を走りだした。

なるべくビルの軒先を探しながら足を進めたが、
あと2つ、信号渡ったら本社というところで、赤信号にぶつかってしまった。

すばやく視線を動かすと、同じように雨に降られてしまった人たちが
何人か並んでいるビルの軒先が目に入り、急いでそこへ飛び込んだ。

伝ってくる雨が目に入らないよう、すくうように前髪を持ち上げながら、
雨水を吸って色が濃くなった制服に視線を落とす。

・・・制服の替えって、ロッカーに入れてたっけ。やばいなぁ。
化粧も落ちてるよなぁ・・・
無駄なことだと思いつつも、制服に着いた雨粒を払っていると、不意に声をかけられた。

「・・・山野さん?」

手を止めて顔を上げると、折りたたみ傘を持ったまま軒先に立つ川田さんがいた。

「川田さん!おつかれさまです。」

「・・・ウチの制服着た濡れネズミが走ってきたと思ったら、山野さんでビックリした。どうしたの」

「私は、新宿営業所に急ぎの契約書持って行った帰りです。行きは晴れてたのに、戻ろうと思った瞬間に
コレですよ」

前髪の水滴を払いながら言うと、川田さんがビジネスバッグの中から
紺色のタオルハンカチを取り出して言った。

「これ、使いなよ。小さいけど、無いよりマシだろ」

「え!いいですよ、濡れちゃいますよ」

「いいよ別に、ホラ。いっぺん差し出したモンを引っ込めさすなよ。気まずいだろ」

グイグイとタオルハンカチをこちらに差し出してきた彼に、ぺこりと会釈してから受け取った。

「・・・すみません。ありがとうございます。洗ってお返ししますから」
受け取ったタオルで腕や首筋を軽く拭っていながら、彼に聞いた。

「川田さんはこれから事務所に帰るとこですか?」

「うん、そうだよ。山野さんは、新宿営業所ってことは・・・杉野さんに頼まれたんだろ」

「え、そうですけど。どうしてわかるんですか?」

「あの人さ、俺が横浜にいたときの上司なんだ。
そのときからデカい契約引っ張って来る代わりに、その相手が変なお客様に
なることが多くてさ。大変なんだよな。
ホント、締結予定の直前まで契約内容にあれこれ難癖つけられてその度に手直しだろ。
まあ、杉野さんの契約は動く金がデカいから仕方ないっちゃ仕方ないけど。
それで何度も捺印請求出してるって聞いてるから」

「そうなんですか。
でも今日持って行ったのは、アポより1時間以上早く来ちゃったお客さんの
契約書でしたよ?」

私の言葉に、彼はあぁ、と言いながらクスッと笑う。

「そっか、今日は『アポの意味がない』系のお客さんか。
…ところでさ、山野さんは新宿営業所で傘、借りなかったの?」

「…え…」

思いつかなかった・・・!
各営業所、持ち主不明のビニール傘くらいなら何本かあるものなのだ。
それを借りれば良かったのに。
目を見開く私の表情を見て、彼が笑いながら言った。

「もしかして思いつかなかったの?」

「そんなの思いつかなかった・・・そういうことは新宿営業所を出る前に言ってくださいよ!
言ってくれたらこんなに濡れなかったのに!」

「案外抜けてるんだな、山野さん」

肩を揺らしながら笑い続ける彼に、私もつられて笑ってしまう。

「もう、ひどい。川田さんが言ってくれないからずぶ濡れじゃないですか!」

「えー!悪いの、俺? 無茶言うなよ!」

「冗談ですよ・・・あ、青だ」

軒先に居た人たちが動き出したのに気付いて、横断歩道のある方向に目を向ければ
信号が青になっていた。

彼が私に傘を傾けながら言う。

「あとちょっとだけど、入って行きなよ」

既に濡れてしまっている私は、一瞬迷ったけど。

「すみません、ありがとうございます」

これ以上あの激しい雨に打たれたくない思いが勝ってしまい、彼の厚意に甘えることにした。

傘が作る影の中に入り、彼と肩を並んで横断歩道へ足を進める。

濡れた制服のブラウスが彼のワイシャツの腕に当たらないようにしようと
注意深く歩くと、そんな私を知ってか知らずか眉をひそめながら彼が言った。

「もっと中に入りなよ。濡れるよ」

軽くブラウスの袖口を引っ張られ、傘もこちら側に傾いてきた。

「でも、濡れたブラウスが川田さんに当たっちゃいますし。大丈夫ですよ」

横断歩道の白線に一歩踏み出しながら、傾いた傘をやんわりと押し返した瞬間、彼が「あ」と言って立ち止まる。

え?と言いかけた私の腕を引き寄せながら傘をおろして盾のようにした。

彼の襟元が目の前に迫る。
引き寄せられた反動で起きた小さな風が、仄かなタバコのにおいをフワリ、鼻先に掠めていった。
そのすぐ後に、青信号を右折で入ってくる車が水しぶきを上げながら私たちの前を通る。

彼に寄り添う形になりながら、彼が下ろした傘にバタバタと大粒の水滴が当たる音を聞いた。

車が遠ざかる音を聞きながら、傘が元の位置に戻る。

「雨ならともかく、水たまりを被るのはイヤだろ?」

もう横断歩道を歩いても問題はないはずなのに何故か、寄り添う距離はまだ戻らないままだ。

頭の上で響く彼の声に反応して見上げた私の視線が、見下ろす彼の視線と絡む。
思わず息を止めてしまった。
雨音が聞こえなくなった。

(あ、また・・・)

あの日みたいだ。

そう思っていると、彼が口を開いた。

「前にもこういうこと、あったね。こんな雨は降ってなかったけど」

私の考えていたことが伝わってしまったのかと一瞬思ってしまいそうになる。
目を見開く私に、彼は言葉を続ける。

「朝。6月。」

「・・・覚えてるんですか?」

「もちろん。ハッキリ覚えてるよ」

早く渡らないと、また信号が赤になってしまう。

でも、視線も体も動かせないまま、私は彼の言葉を聞いていた。

「あの日、山野さんに話しかけようって決めてたから」

「え?」

徐々に鼓動が早まるのを感じながら、私は聞きかえす。

「やっと同じフロアになったのに仕事でも絡まない、顔出す飲み会も被らない。
こっちに来たばっかで仕事も落ち着かないから気づけば定時越えて、先に帰られてるし。
異動して2カ月以上も何もできなくて、いい加減なんとかしたいなと思ってたら
偶然、前を歩いてる山野さんを見つけてさ。
何でもいいから、話しかけたかったんだ」

彼の言葉に、目を見開くだけで何も言えない私を見て、フッと笑う彼。

「ビックリしてるね」

何と言って良いのかわからない。

これって、そういう意味だよね?
勘違いじゃなくて、そういう意味だよね?
だけど。

「どうして・・・」

やっと言った言葉で、彼の答えを待ってみる。

傘が作る影で、黒目がちに見える彼の瞳を見つめ続けた。

だけど、彼が言った言葉は予想外のものだった。

「あ、雨、止んだね」

「・・・はい?」

「空。晴れてる」
彼が傘をおろしながら、空を指さす。

私は反射的に彼が指さすほうを見て、答えてしまった。

「ほんとだ」

「行こう。今、まだ仕事中なの忘れてた」

「あ・・・はい」

なんだ、この展開。

あそこまで話しておいて、中断? 
首をひねりたくなりながら、彼から視線を外すと
信号は再び、青に変わっていた。

スッキリしない感は否めないが、確かに今はまだ業務時間中で。
仕事中にする話題じゃないことはわかっている。

私は俯きながら横断歩道に足を踏み入れた。

濡れたアスファルトの、ところどころにできた水たまりが鏡のように
青空を映しているのをぼんやり眺めながら歩きだそうとしたら、呼びとめられた。

「山野さん」

振り向きざま、オフィス用の黒いパンプスが水たまりを踏み、パシャンと水音を立てた。

「今の話の続き。また今度、聞いてもらえる?」

まっすぐ見つめてくる彼の眼差し。

「はい。聞かせてください」

私が答えると、彼は。

夕立が上がって再び雲間から射し始めた太陽の光に、一瞬だけまぶしそうな顔をしたあと。

安心したように、大きく笑って言った。

「ありがとう」










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