耳に残るは
その日も、よくある朝。
どうということのない一日の始まりだった。
ハイヒールを履いたつま先に違和感。
(あー、つま先に穴、空いたかな。予備無いんだよなー。コンビニ寄ってる時間ないよ・・・)
朝の、新宿のスクランブル交差点で歩きながらぼんやり考える。
(仕方ない、お昼買うときにストッキングも買うか。午前は我慢だ、靴履いてれば見えないし)
何年も歩き続けた通勤経路。考え事してたって人とぶつからずに歩けるんだけど。
不意に、左ひじに冷たいものがあてられた気配がして驚いた。
「!」
とっさに振り返った先には誰もいない。代わりに、横に誰かが並ぶ気配がしたので
視線を横に向けると、眼前にはグレーのスーツの肩。
目線をあげると、目を細めてほほ笑む彼がいた。
「おはよ」
「川田さん。おはようございます」
「あげるよ。冷えてるってさ」
彼の手には、栄養ドリンクの茶色いガラス瓶。
「え?」
「そこ。信号のとこで配ってた試供品」
冷たかった左ひじにそっと手を触れながら聞いた。
「栄養ドリンク?ですか?」
「そ。タダに惹かれてつい、もらったは良いけど。なんか女子向けっぽかったからいいや」
「え・・・っと、いいんですか? ありがとうございます。」
私も配ってるの知ってて、もらっても飲まないなと思ってたから
手を伸ばさなかった栄養ドリンクだったけど。
要らないと断るのも面倒でそのままもらってしまった。
彼とは同じフロアにいるけど、仕事上の一言二言以外で話したことがない。
さて、会社に着くまで何を話そうかと考えようとした瞬間に
「ちょっとごめんね」と言いながら腕を掴まれて引き寄せられる。
「え、」
いきなり迫る、ブルーのネクタイを締めた襟元。
意味がわからず彼の視線を追うと、私の背中ギリギリに
通り過ぎていく原付。
頭のななめ上で、「ぶつかりそうだったから」と、ささやくような低い声が響いた。
見上げると、至近距離で私を見下ろす彼の視線とぶつかり思考が止まる。
一瞬言葉に詰まりながら「あ、すみませ・・・」と言いかけると、
腕をつかんでいた手がパッと離れて
「あ、今日朝イチの会議だ。準備あるから。山野さん、お先!」
そう言った途端、彼は人のあいだをすり抜けながら早歩きで去って行った。
(なんだったんだろ・・・)
スーツの広い背中がどんどん遠ざかるのを、ぼんやり見つめながら歩いていたがハっとした。
あれ、さっき会議って言った? しかも朝イチ?
やばい、会議中の留守電設定しなきゃ!
私も速足で歩きだす。
そして、再びいつもの日常に溶け込んでいく。
とっさに掴まれた手の大きさも。
響いた低い声も。
ぶつかった視線に、胸の音が跳ねたような気がしたことも。
すべて、すぐに意識の外に出てしまうはずだと思いながら。
どうということのない一日の始まりだった。
ハイヒールを履いたつま先に違和感。
(あー、つま先に穴、空いたかな。予備無いんだよなー。コンビニ寄ってる時間ないよ・・・)
朝の、新宿のスクランブル交差点で歩きながらぼんやり考える。
(仕方ない、お昼買うときにストッキングも買うか。午前は我慢だ、靴履いてれば見えないし)
何年も歩き続けた通勤経路。考え事してたって人とぶつからずに歩けるんだけど。
不意に、左ひじに冷たいものがあてられた気配がして驚いた。
「!」
とっさに振り返った先には誰もいない。代わりに、横に誰かが並ぶ気配がしたので
視線を横に向けると、眼前にはグレーのスーツの肩。
目線をあげると、目を細めてほほ笑む彼がいた。
「おはよ」
「川田さん。おはようございます」
「あげるよ。冷えてるってさ」
彼の手には、栄養ドリンクの茶色いガラス瓶。
「え?」
「そこ。信号のとこで配ってた試供品」
冷たかった左ひじにそっと手を触れながら聞いた。
「栄養ドリンク?ですか?」
「そ。タダに惹かれてつい、もらったは良いけど。なんか女子向けっぽかったからいいや」
「え・・・っと、いいんですか? ありがとうございます。」
私も配ってるの知ってて、もらっても飲まないなと思ってたから
手を伸ばさなかった栄養ドリンクだったけど。
要らないと断るのも面倒でそのままもらってしまった。
彼とは同じフロアにいるけど、仕事上の一言二言以外で話したことがない。
さて、会社に着くまで何を話そうかと考えようとした瞬間に
「ちょっとごめんね」と言いながら腕を掴まれて引き寄せられる。
「え、」
いきなり迫る、ブルーのネクタイを締めた襟元。
意味がわからず彼の視線を追うと、私の背中ギリギリに
通り過ぎていく原付。
頭のななめ上で、「ぶつかりそうだったから」と、ささやくような低い声が響いた。
見上げると、至近距離で私を見下ろす彼の視線とぶつかり思考が止まる。
一瞬言葉に詰まりながら「あ、すみませ・・・」と言いかけると、
腕をつかんでいた手がパッと離れて
「あ、今日朝イチの会議だ。準備あるから。山野さん、お先!」
そう言った途端、彼は人のあいだをすり抜けながら早歩きで去って行った。
(なんだったんだろ・・・)
スーツの広い背中がどんどん遠ざかるのを、ぼんやり見つめながら歩いていたがハっとした。
あれ、さっき会議って言った? しかも朝イチ?
やばい、会議中の留守電設定しなきゃ!
私も速足で歩きだす。
そして、再びいつもの日常に溶け込んでいく。
とっさに掴まれた手の大きさも。
響いた低い声も。
ぶつかった視線に、胸の音が跳ねたような気がしたことも。
すべて、すぐに意識の外に出てしまうはずだと思いながら。