シャボン玉
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シャボン玉
20××年、8月15日。
住宅街の真ん中に小さな公園がある。
公園の名前は「いわを」。
老女がシャボン玉を飛ばしていた。
「もう、いいんだよ。もういいからね。高くね。高く飛んで行くんだよ」
そう言いながらシャボン玉を飛ばしていた。
近くを通った人が聞いていた。
時には重箱を広げている姿もあった。
その中には食べ物が見えた。
自分で食べる風ではなく、ただ膝の上に置いてあるだけだった。
いつも一人だった。
公園の近くに住む人達の中には、「あぁ、また来たのね。毎年来てるよね。私がここに来たのが3年前だけどその時も見たよ」
その彼女がいつ頃からシャボン玉を飛ばしているのか誰も知らなかった。
彼女は一時間程で帰って行く。
訝しく思っても、
一時間ぐらい公園でシャボン玉を飛ばしてるぐらいでは何も言えなかった。
いつしか8月15日になると誰彼となくその公園に行き、彼女が来て居ないか確かめる様になった。
翌年の8月15日。
また彼女は来た。
そしてその翌年。
彼女は来なかった。
「あのおばあさん、居なかったね」
「私も見てないよ」
誰も見てなかった。
公園でシャボン玉を飛ばしていた赤の他人である。
いつしか誰も、日々の生活に追われて忘れていった。
一年も経たない内に誰の口の端にものぼらなくなり、誰も彼も忘れ去っていた。
二年目の8月15日。
近所の住人が公園を通った時、多くの人達が公園に集まっているのを見た。
皆んな、シャボン玉を飛ばしていた。
「何かあったんですかね?」
近所の人達が囁きあう。
公園に集まっていた人達の中には、子供もいた。
子供も、大人もシャボン玉を飛ばしている。
笑い声が公園に響いていた。
寺の住職がいた。
袈裟を着ている。
遠巻きに見ていた住人の一人が、思い切って住職に聞いた。
「何かあったんですか?」
「ああ。すいません。市役所には許可を貰ってますから。実は………」
住職が説明してくれた。
ここに集まっている人達は「あの」彼女の遺族で、この公園はかっては彼女の土地だった。
彼女には三人子供がいて、息子が一人。
長男だった。
第二次世界大戦時。
長男には召集令状は来ないと彼女は信じていた。
だが終戦間近、なりふり構わぬ日本軍は長男だろうが、制限年齢に満たなくても召集令状を出した。
彼女の息子「いわを」にも召集令状が来た。
輸送船に乗っていたがフィリピン沖でアメリカ潜水艦の魚雷を受け沈没した。
生存者16人。
生存者の中に彼女の息子は入っては居なかった。
届いたのは「戦死」。
彼女の息子は、たった一枚の紙切れになって戻ってきた。
19歳だった。
彼女はこの土地を「ここの市」に寄付する時に条件を付けた。
名前を「いわを」とする事。
この土地を「自分」が死ぬまで公園として残すこと。
「いわをはね、小さい頃、甘えん坊で泣き虫でね。
シャボン玉が好きで、シャボン玉を飛ばすとすぐ泣き止んだのよ」
平和な世になってから時々家族に懐かしそうに語っていた、と言う。
それ以来、8月15日になると彼女はこの公園でシャボン玉を飛ばす様になった。
西の空に陽が落ちようとして、公園が朱に染まって来た。
近所の女性が、
「私にもシャボン玉を飛ばせて貰えませんか?」
「どうぞ、まだシャボンありますから」
また一人、
「私もいいですか?」
そしてまた一人。
誰かが彼女の言っていた言葉を知らずに声に出していた。
「もう、いいんだよ。もういいからね。高くね。高く飛んで行くんだよ」
シャボン玉は飛んで行く、
シャボン玉は帰らない。
夕焼けに染まりながら、皆んな、いつ迄もいつ迄もシャボン玉を飛ばしていた。
シャボン玉は飛んで行く。
そして、シャボン玉は、
帰らない。