幸福なキス〜好きになっても、いいですか? SS〜
――しかし。
純一がいない時間を作りたかった麻子にとって、誤算が起きていた。
(麻子(あいつ)のことだ、きっともう出社してるだろ)
すぐそこの廊下まで、純一がやってきていたのだ。
それは、大した用事でもない。昨夜、自宅マンションに来ていた麻子が忘れた髪留めを渡すついでに、少し顔を見れたら――といったもの。
なんの飾り気もない、その黒いピンを手に、意気揚々と純一は秘書課へ向かう。
長い足を活かして、あっという間に辿り着いた秘書室のドア。そのドアに今まさに手を掛けようと思ったときだった。
「……こんなこと、早乙女さんにしか言えなくて」
静かな廊下に漏れ聞こえたのは、麻子の声。
小さな音だが、でも純一の耳にははっきりと聞こえた。
(「早乙女さん」……? 敦志がいる……?)
疑るように、純一は息を潜め、ドアに耳を近付ける。すると、やはり、男の――――敦志の声も聞こえてきた。
「――いえ。何度も言ってるじゃないですか。『頼ってください』と」
二人の会話に疑問符を浮かべながら、怪訝そうな顔で聞き耳を立てる。
こんなこと性に合わないし、なにより、社長が盗み聞きだなんて、社員に示しがつかない。
頭ではそう思っているのに、どうしても、プライベートな意識が勝ってしまって、目の前のドアを開けることが出来ない。
心音を高鳴らせながら、引き続き純一は二人の様子を窺った。
「もう……頼れるのは早乙女さんしかいなくて……私……」
麻子の言葉に、胸を引き裂かれる思いだ。
自分という存在があるはずなのに、それを差し置いて、敦志と密会してまで頼る姿。もちろん、姿までは見ていないが、声だけでそれが本心から頼っているものだというくらいは純一にもわかる。
純一がギリッと奥歯を強く噛んでいることなど知らない二人は、そのまま会話を続けていく。
「……それにしても。本当に、可愛いですね。……触っても?」
(お……オイオイ! 嘘だろう?!)
「はい。あ、でも優しくお願いします」
「もちろん」
目を見開き、息をするのも忘れてしまう。純一は、右手で口元を抑えてドアに背を預けた。
この扉一枚の向こう側で、最愛の〝彼女〟と、大切な〝兄〟が――。
「――あっ。……ん、ふふっ。く、くすぐったい」
麻子の鼻にかかったその声に、ついに我慢できなくなった純一が、青筋を立てながら勢いよくドアを開け放つ。