誰も知らない物語
「師匠ばっかり見ないでよ。僕のことを見てよ。彼はもういない。どこにもいないんだよ」

右腕でギュッと彼女を抱き締めた。

もとから華奢だったけれど、更に細く、弱々しくなっている。
だけど確かに温もりがあった。

「離れて…近寄らないで」

「嫌だ、離れない。僕は生きてる。君も生きてる。だから、師匠のことばかりに囚われないで」

彼女の体が小さく震えた。
嗚咽が聞こえる。泣いているのがわかった。

「師匠はいつも守ってくれた。師匠は私を救ってくれた。師匠が私の生きる意味だった。
なのにその師匠がいなくなったんだよ。もう生きていたくない。死にたいよ」

何度も繰り返した一週間の中で初めて、彼女の本音が聴けた。

彼女はそこから、壊れたように泣きながら「師匠」と口にした。

僕は哀しみに震える目の前の細い体を、ただただ抱き締めていた。


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