私雨。1

私雨。3

雨は………上がっていた。
止みそうにそうになかった雨が上がり、彼方の空から薄明かりが地上に漏れて来ていた。
「止みましたね」
「………………?」
「雨ですよ、警部。上がりました。すぐ着きます」
「あぁ………」

住宅街を走って行くうちに徐々に、古いアパートの軒並みの中に入り込んで行った。
ここは都内でも低下層の人達の住む所で知られている。

………そしてそこから更に進むと、人としての暮らしを忘れた様な生き方をしている人達が生息していた。


雨の上がった道路を薄汚れた衣服の男達が歩き、住居の軒下の壊れそうなシャッターの前には、荷物を抱えた者も幾人も姿が見えた。

景気がいい時には、ここからすぐ先の小さな公園に車が止まり、「手配師」が人を集め現場に送る。

日銭を貰ったらここに返って来て宿泊所に泊まるが、景気の悪い時には夏は野宿。
冬は「新人と人見知りの変わり者」は一晩中歩くが、慣れてる奴は避難所か、自分の「テリトリー」の寝ぐらに潜り込む。

食い物は、炊き出しにすがって生きるか、人の残飯を漁る。
それでも此処を離れられない人達がいた。

この町が「そんな町」だから、そんな人間が集まるのか、「そんな人間」が集まるからこの町が出来たのか、それは分からない。

ただ、はっきり言えることは此処は間違いなく社会から弾き出され、
身寄りにも見放された、社会不適応者達の掃き溜め、と言う事だった。

そしてもう一つ………
此処はメビウスの帯の様に、光と影が同居していて、表と裏が絶え間無く行き交い、今日と明日が簡単にひっくり返る………そんな世界でもある。


警官の姿が見えた。
規制線が張られている。
「着きましたよ、警部」
「あぁ………」

その建物は古い二階建ての建物で、建物の横には、今にも落ちそうに「簡易宿泊所」の看板が掛けられていた。
同じ様な造りの建物が幾つもあり、簡易宿泊所の看板もそこかしこに見える。

3課の片桐肇班長と鑑識の寝屋川は規制線の中にいた。

「片桐、ネヤさん(寝屋川)、スマン」
「ああ、寝てないんだろ?コーヒーだ」

寝屋川はポットに入ったコーヒーを大志田と大垣にカップに入れて渡した。

「現場でコーヒー飲んでたなんてクレームが、警視庁に行くかもな……」
寝屋川が笑いながら言うと、大志田は苦笑いしながらカップに口をつけた。

「そんな事を気にする様なタマかね、二人とも?」
片桐が言うと、
(違いない)
大志田は腹の中で笑った。
「で、その部屋の住人は?」

「真行寺武夫、82歳。身元は紹介中だ。不明なら場合によっては片桐班が調べてくれる。
今の所倒れていた事自体は事件性は見当たらない。
まだ意識は戻ってないが、命に別条はないということだ。原因はまだ分からないがな」
「………待つしかないな………」

大志田は辺りを見廻し、
「所で、ネヤさん、今日のカメラマンは?」
「葛城だ……そこにいる」
「念の為に野次馬の記念写真、分からない様に撮っておいてくれ」
「ああ、了解、ビデオも回しとく」

大志田が顔を僅かに左に向けた時、
「………………!」

大志田の記憶の中の犯罪者リストの頁がめくれた。
「片桐……そのままで聞いてくれ。お前の右斜め後ろ30m、道路を隔てた飲み屋の前に野次馬に混じって、写真で見た顔がいる。確かめてくれ」
片桐は何気ない様子で、僅かに顔を向けた。
「………!!」

「知ってるのか?」
「……あぁ、俺は使ったことはないが、あいつは一級の情報屋だ。
変だな………無闇に警察の前に顔を晒す様な奴じゃあないのに」

「単なる野次馬とも思えないな。気になる。職質掛けても損はないだろう。
片桐、お前のチームは、この辺の地理は詳しいのか?逃げたら逃げたで、何かあるって事だからな」

片桐は大志田の腹を読んだ。
「俺達の地元もいい所だよ。任してくれ。捕まえてみる。お前はネヤさんと現場に行ってくれ」
「あぁ………」

片桐は大志田に「釘を刺す」ことを忘れなかった。
「大志田……分かった事は俺にも話せよ!仲間外れはごめんだからな」

大志田は頷いた。
大志田も片桐の腹は読めている。





「その」簡易宿泊所は他の簡易宿泊所より値段が高めだった。通常、ある程度の広さの場所に、7〜10人くらいが簡易ベッドに寝るか、もしくは布団を敷いて寝る。
あるいは一人用の場合は、壁で仕切って3畳程の個室にする。もちろん値段は違う。

そこは凡そ6畳で他の簡易宿泊所より二倍の値段だと言う事を、大垣は聞き、
「それなら普通にアパート借りた方がいいと思うんですがね」

大垣の言うことは尤もだったが、
寝屋川は表情も変えずに、
「人には事情があるさ。普通の生活が出来ないから、此処に落ちて来るんだよ。此処なら………ある程度の面倒なら見逃してくれるしな」
「……………」

玄関にその宿泊所のオーナーが不安そうな顔をして立っていた。

「困るんだよね〜。他の住人にも迷惑だしさ。私の所は割と金持ってる人達の長期滞在者なんだよね。訳あり……の人もいるしさ……」

「訳ありって?」
大志田が問い詰める様な顔をしたら、
「ああ、いやいや、そんな意味じゃあないですよ。早く終わらして欲しいって事ですよ」

「オジさん……此処に泥棒のアジトがあったんだよ!簡単にはすまないだろう?
それともオジさん、何か知ってたんじゃあないのか?」
「ま、まさか!勘弁してよ!」

寝屋川が割って入った。
「まぁまぁ、オジさん、出来るだけ早く終わらせるからさ。それと警察の事情聴取は終わったのかい?」

宿泊所のオーナーが頷くのを見ると、寝屋川は二階を指差した。
「上だ、部屋は階段を上がって、奥の左だ。窃盗団の部屋は一階の奥だが、見るか?」
「病院に運ばれた男と窃盗団の関係は?」
「ない、と考えていいだろうな」

「分かった、そっち(一階)は後でいい」

二階に上がると、建物の真ん中に廊下があり両側にドアが五つづつ並んでいた。
廊下の奥に若い警官が一人立っていたが、見覚えがあった。
「ご苦労さん。S駅前の交番だっけ?」

「そうです。応援で来ました。
お久しぶりです、大志田警部」
「ごめん、名前は?」
「堂本です」
「堂本君、此処の住人が病院に運ばれてから、誰か他に、刑事か警官、この部屋に入った?」

「いえ、誰も………アパートのオーナーも入れていません。
寝屋川さんから警視総監が来るかもしれないけど、来ても入れるなって言われてましたから」
「………?」
「流石ですよね。総監でも現場に来ることがあるんですね」

大志田は堂本を見て、
「アホか!【閣下】がこんなトコに来るか!
ネヤさん、いい加減にしてくれ」

寝屋川は首をすくめおどけた。
「堂本………紹介出来る仕事、幾つかあるからな」
寝屋川は一人で笑った。

定年間近の寝屋川にとって若い警官をからかう事だけに、生き甲斐を見出している所があった。







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