私雨。1
私雨。7
「結局………ここに舞い戻って来ましたね」
まだ寝足りない、そんな顔をしながら呟いた。

一課の中にある応接室のソファに横になり、大垣が誰に言うともなく呟いたが、メモを書いていた大志田に、聞こえたかどうかは分からない。

大志田と大垣は真行寺武夫のいた簡易宿泊所を出た後、片桐と食事をして警視庁に戻って来ていた。

「それでも夕べはよく寝たろ?愚痴をこぼせるぐらいなら大丈夫だな」
「聞こえてましたか、聞こえてたとは思いましたけどね。まぁ、一応ぐっすり寝ましたけどね。それで、課長はなんて言ってましたか?」

朝一番で大志田は課長に前日の報告をしていた。
「流石に、正式にチームを動かすのは出来ない。後で何もなかったなんて事になったら、北上管理官から何を言われるか分からないからな」
「余程の仲の悪さですね」
「あぁ………」

「それで、どうします?」
「一応、俺とお前は自由に動ける。ただし、一週間以内に報告書を出せって事だ」
「その間に結果を出せと?」
「そう言うことだ」

ドアが開いた。
片桐だった。側にもう一人いた。
片桐は部屋を見回し懐かしそうに、
「ここに来るのは久しぶりだな。ゆっくり寝たかい?」
「ええ、警部の鼾がなければもっと寝られ………」

大垣の言葉は飛んできたメモ帳に遮られた。
「それは俺のセリフだよ。
大垣、ここを30分後に出るぞ!
お前は、そのメモ帳に書いてある場所に行って、そこに書いてある人物と会って話しを聞いて来い。内容はそこに書いてある。
それで片桐、何か分かったのか?」
「ああ、その前に差し入れだよ。食堂はまだ開いてないからな」

片桐はテーブルの上にコーヒーとパンを出した。

「食いながら聞いてくれ。
こっちの課長からも話しがあったと思うが、課長同士の間で話しが決まった。
一週間俺と、この佐伯がお前達に協力する。もちろん非公式だがな。うちの課長も乗り気だよ。瓢箪から駒、なんて言ってるよ。ひょっとしたら………大金星だからな。

三課もいるって事を示したいんだろうな。当事者の一人でもある、お前には悪いがな」

「別に悪くはないさ、あの事件が動くんだったら、それでいいさ。
それより、お前が吹き込んだんじゃあないのか?」

「少しはな、でも根拠はあるさ………それで、真行寺武夫の事だが、まだ、話せる状態ではないと言うことだ。命に別条はないが、検査の結果は教えてはくれなかった。
取り調べの令状も取れない。指紋は宿泊帳もだめだった。宿泊所に残されていた宿泊帳の名前も住所もデタラメだった。
で………それでも………」

「それでも?」
「指紋は採ったよ。もちろん掌紋も採った。顔写真もな。昨日の情報屋の顔写真もあるよ」

そう言って片桐は笑みを浮かべた。
「心配するなよ。違法な真似はしてない。もっとも本人の承諾もないがな」

偶然にな………だと片桐は言ったが、大志田もそれ以上は聞かなかった。
「それで?」
「警視庁のデータベースにはなかった。で………」
「…………」

「もう一つのデータベースに真行寺の指紋と掌紋を紹介した」
「フラワーボックスか?」
「あぁ」

フラワーボックス。
別名、
【花の欠片(かけら)】

花の欠片とは、戦後の犯罪史、犯罪現場の中で不明指紋、掌紋、又は指紋、掌紋の一部断片しかない、不明なものを管理している場所の事を、
通称【花の欠片】、と呼んでいる。

ここにアクセス出来るIDを持って居るのは警視庁なら部長以上。
ここには戦後の司法の裏面史がある。
場合によっては、司法の崩壊に繋がりかねない「物」もある。

例えば………
昭和××年6月7日午後9時。不動産業者から借りていた借金の担保に入れていた、家の明け渡しの話し合いの為、不動産会社社長の鶴田陽二郎59歳が、本枝××宅を訪れていた。

しかし、話し合いが決裂して怒った鶴田は、本枝本人と妻と息子をその場で被害者宅の台所にあった包丁で惨殺。

親子三人の体を、合計4カ所刺して殺害していた。
本人は逃亡して、北海道の旅館で発見、逮捕され、長い裁判の結果鶴田陽二郎は単独犯と断定され、死刑宣告を受け、5年後に刑が執行された。

しかし、取り調べ中も裁判中も本人は本枝本人を、台所にあった包丁で、胸を一度刺したことは認めるも、怖くなり逃げた、と一貫して主張していた。

本枝を刺した事は認めるも妻や子は刺してはいないと、刑が執行されるまで頑なに否定したが、
物証、状況証拠、どれを取っても鶴田の犯行を示していた。

だが、不可解な事が一点あった。凶器の包丁には鶴田の指紋、掌紋があったが、鶴田本人の物ではない、被害者家族のものでもない、誰の物とも分からない不明の掌紋の一部が付いていた。

鑑識の1人はこの掌紋の特異性を上げ、犯人は別にいるか、共犯がいるかもしれない、と報告を上げるが、捜査本部はこれを無視し、検察もこれを無視した。

それから10年後、ある男が強盗の容疑で逮捕された際、指紋と掌紋を採取した際に、偶然その掌紋を見て不審を覚えた鑑識の班長がいた。
その鑑識の班長は奇しくも鶴田事件を扱った鑑識の1人だった。

鶴田陽二郎が犯行に使用した凶器に付いていた一部の掌紋は、九図紋と呼ばれる10万人に1人、と言われる珍しいものでその鑑識の班長はよく覚えていた。

その鑑識の班長から担当刑事に報告が行き、刑事はその男に、過去の犯罪の有無を確かめるうちに、その男は鶴田事件の真相を自供した。
鶴田事件の不明掌紋の一部と、その男の掌紋が一致した。
本人確率19%。

一部の掌紋の照合とはいえ、本人確率が19%、と言うことは、一部であるが故に、限りなく本人に近いと言うことになる。

何故話す気になったのかは不明だが、「秘密の暴露」までしている。


本枝に頼まれ、鶴田との話し合いがこじれた場合の仲裁役で、その男は別室に潜んでいた。

実は本枝は鶴田を不動産詐欺に掛けていて、その金580万円をその家に置いていたが、その男は咄嗟の成り行きで、その金を奪う為に、鶴田が逃げた後、一家を殺害した事を自白した。

その男は手ぬぐいを右手に巻き、鶴田が投げ捨てた包丁を掴み刺したが、一度手ぬぐいがずれ、包丁を落としている。

その時、掌が包丁の刃の根元に触った感触があったと供述している。
凶器の包丁から出た九図紋は、包丁の根元から出ている。
当然報告は上がる。

事態は深刻だった。
単なる冤罪ではない。

本人が生きていればともかく、既に刑は執行されている。
再審請求が通れば、九分九厘無罪になる可能性が高い。そうなれば、
単なる「国家の殺人」である。

役人同士庇い合う体質が有っても、これはそうはいかない。
これを庇ったら庇った本人も「首」が飛ぶ。
しかし、
どうするか協議中に、「この男」は収監中に逃亡を計り事故死している。
しかも、鶴田事件の冤罪の可能性が一部マスコミに漏れ、鶴田事件を追いかけていた、東京日報の記者は、鶴田冤罪の証拠を一部掴んだと、記者仲間で噂されて間も無く、交通事故死している。
不可解な死が続き不審に思った者もいたが警察、検察には好都合だった。

鶴田には妻がいたが鶴田の死後二年後に亡くなっていて、身寄りも近くにはいない。
再審請求する本人は見当たらなかった。

そして、鶴田事件と「その男」を取り調べた関係者は全員、東京から移動させられ、九図紋は【花の欠片】に納められ、硬く封印された。

近年になり、この
【花の欠片】の存在が、或る著名なジャーナリストによって、「関係者からの取材」で、明るみに出るものの、警視庁広報部は、これを、
「売名行為を行うジャーナリストの荒唐無稽な絵空事」、と否定し、非難した。
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