この思いを迷宮に捧ぐ
「俺は暗殺者だ。わかった?」

こんな殺気のないいい加減な暗殺者がいるわけないと思うが、仕方なく千砂は頷く。

こう押さえつけられては、何もできない。


翠が千砂の手首を離した。ほっとしたのも束の間、千砂は首に冷たい感触を認めてぞっとした。

「まずは、泣いてごらん」

殺気も熱意も全く感じられないのに、いつの間にか翠が、千砂にナイフを向けていたからだ。しかもそのナイフの柄の模様は、千砂が護身用に足首に隠し持っていたものに違いなかった。

…全然気付かなかった。いつの間に取られたんだろう。

千砂は、初めて翠のこれまでの人生を垣間見た気がした。

「普通、怖いなら自然に泣けるんじゃないのかな」

確かに、普段の翠と今の翠とのギャップにも、この危機的状況にも、恐怖を感じていいはずなのだが、千砂はそうも思えないままだった。

結婚した相手が刺客だったと言うことなら、死んでも理由が立つだろうかと考えただけだ。

「呆れるくらいに強情だね」

翠は、ため息をついて千砂を見下ろす。
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