切美


そのとき、鏡の中で切美の唇が動いた。


「ねえ、外に出たいわ」


「え?」


「この格好で、外を歩いてみたいの。ねえ、いいでしょう?」


剛は目を丸くした。そして、口をおさえてしゃがみこんだ。


何が起きたのかわからなかった。さっきの言葉は自分のものではない。自分はまだ切美を演じようとはしていないはずだ。それなのに、口が勝手にうごいて切美の声色でしゃべった。


恐る恐る姿見を見た。


そこには切美が、いや、着物姿の剛が、混乱した表情をうかべて映っていた。すると、急にその表情が艶然としたものに変わった。それと同時に、おさえた手の下で、唇がまたひとりでにもごもごとうごめいた。おどろいて手をはなすと、唇は、ぷはあと息を吐き、また切美の声色で言葉を発した。


「ちょっとやめてよ。苦しいじゃない」


「・・・・・・何なんだよ、これ?」


剛はおびえた顔で姿見を凝視した。鏡の中のその顔は、また艶然とした表情になった。


「何言ってるのよ。あなたが望んだことじゃない。ずっとわたしに会いたかったんでしょう?」


「おまえ誰だよ?」


「切美よ」


「うそだ。切美なんてこの世にはいない。それは、おれの妄想だ」


「いまこうして目の前にいるじゃない」


「そんな」


「あなたがわたしを生みだしてくれたんでしょう。毎晩化粧をして、きれいな服を着せてくれて」


鏡の中の顔が、会話とともに、剛と切美に入れ替わる。気持ちが悪くなって、剛は姿見に背をむけた。すると、唇が不機嫌そうな声を発した。


「失礼だわ、その態度。いやならいいのよ。わたし、消えるから」


「あ、待ってくれ」


剛は宙にむかってあわてて呼び止めた。


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