B級彼女とS級彼氏
第10話~バッドタイミング~
いぐさの匂いをすぐ側で感じる。その事から私は今、畳の上でひっくり返っているのだなと改めてわかった。
左手首は未だに慎吾さんの手で拘束されていて、動かそうとすればそれを許さないと慎吾さんが阻む。ならば、と右の手を床について起き上がろうとすれば、私の真上にいる慎吾さんはそこをどく気は無いのか、単に慎吾さんと自分の距離を縮めるだけの結果となってしまった。
頭の上では相変わらずテレビから喘ぐ声が響き渡っている。まるでこっちの空気を読んでくれないこの映画の展開に、耳を塞ぎたくとも空いている手が私にはもう無かった。
「……あのう」
「なに?」
「どいてくれませんか?」
「くれません」
――ああ、そうですか
予想通りの返答に思わず舌打ちをしそうになる。取りあえず、慎吾さんの顔が真正面にあるのが気になるので、視線をわざと逸らしてこの状況からどうやって抜け出すべきかを考えていた。
「――。……ひゃっ!?」
斜めになった身体を支えていた右手首を掬われて、支えの無くなった身体はいとも簡単に崩れ落ちる。ふたたび畳に背中をつけた私の動きを一切封じるようにして、今度は両手首とも畳に縫い付けられた。
いつまでも続く悪ふざけに我慢ならなくなった私は、キッと慎吾さんに鋭い視線を向ける。そんな私の表情を見てか、慎吾さんが“お?”と言うような顔をした。
「いい加減にしないと、流石の私でも怒りますよ?」
「怒る? それだけ?」
「ふざけないで下さい」
「ふざけてないよ。逃げられるんだったら、逃げてみなよ?」
「っ!!」
慎吾さんのその挑発に乗った私は身体をバタつかせ、慎吾さんを跳ね除けようと必死でもがいた。だが、もがけばもがくほど手首に込められる力が増すだけで、一向に慎吾さんの下から抜け出る事が出来ない。
額に汗が薄っすらと浮かぶほど暴れに暴れてみたが、結局状況は変わらず私は無駄に体力を消耗しただけとなる。連日勤務による睡眠不足がたたっているのか、いつにも増して力が入らない。
「どうしたの? もう終り?」
ニヤリとした表情で私を見下ろしている慎吾さんに、軽く殺意を覚えた。
「もう、勘弁して下さい」
「……仕方ない、許してあげよう」
両手首を解放すると、慎吾さんは身体を起こした。続いて私も身体を起こし、拘束されて血流の止められていた手首をさする。
「もう、何なんですか」
「んー、ちょっとムッとしてさ」
「はぁ!?」
ちょっとムッとしたくらいでいちいち人を押し倒していたら、店で何人押し倒さないといけないと思ってるんだこの人は。
客にレジで『ガラム』って言われて、コンビニにそんなもんおいとるかって叫びたいのをぐっとこらえ、比較的冷静に『置いてないんです』と言った返事が『チッ、使えねー』とかだったら、慎吾さんはそいつを押し倒すのか!? 仕方ないとばかりに『んじゃ、マイルドセブン』って言いなおされて、レジの後ろに配置されている大量に並べられたタバコの陳列棚からマイルドセブンを探し当て、戻って来た瞬間『ライト』って付け加えられたりしたら? イラッとしながらもライトと交換して『あ、やっぱりスーパーライト』とか言われてしまったとしたら? ……慎吾さんは一体どうなってしまうんだろう。想像しただけでも恐ろしくなるぞ。
「歩ちゃん、無防備すぎるよ。こんな夜中に何のためらいも無く男を自宅に上げた上に、風呂まで使わせて挙げ句の果てに泊まっていけだなんて」
「いや、それは慎吾さんだからですよ。他の男の人にはそんな事しませんて」
「うわっ、グサッと来るなその言葉」
「褒め言葉ですよ。慎吾さんはそんな事する人じゃないって思ってますから」
「ふーん」
本心から納得してなさそうな顔をして、慎吾さんは胡坐をかいていた足を組みなおした。テーブルの上のコーヒーに手を伸ばし一口それを口に含む。すぐにマグを戻すと、両膝の上に自分の両手をパンッと乗せた。
「でも、さっきのでわかったよね? どんなにあがいたところで、男の力には勝てっこ無いんだって事」
「まさかですけど……、わざわざそれを教えるためにあんな事したんですか?」
「そう。口で言ってもわかってくれなさそうだったし」
「あ、悪趣味……」
一際冷ややかな視線を慎吾さんに送り、私は自然と身体を遠ざけた。
「あ、また酷い事を言う! 僕はあまりにも無防備な歩ちゃんが心配になったから、仕方なく、致し方なく! あんな恥ずかしい事をしたって言うのに」
なんで『仕方ない』って二度も言うのだ。そこを変に強調されると悪意があるとしか思えなくなるんですが。
「とにかく! ……さっきの小田桐ってやつ、気をつけなよ? あー言うタイプは何するかわからないから」
「少なくとも今練習した様な事態に陥る事は無いと思いますが……」
ああ、そうか。結局慎吾さんはとことん小田桐が信用出来ないんだな。と、ここで奴の名前が出て来た事で、慎吾さんの突飛な行動の意味するところがやっとわかった。
心配せずとも小田桐はおろか、私に近しい男性は誰も私の事を女扱いしない。酒は浴びるように飲むわ、背も一七〇センチとそこいらの男並みにあるわ、化粧なんて友達の結婚式とかで少しするくらいで普段は一切しない。極め付けにこのどーでもいーわってオーラが常ににじみ出ているのだから、女扱いしろって言う方が無理だろう。
まぁ、自業自得ではあるのだけれど。
「――」
――こんな私が“恋”をするなんて、到底無理なんだろうな。
改めてそう感じさせられて、ちょっぴりへこんでしまった。
「じゃあ、行ってきます!」
「はいはい、いってらっしゃい」
「うわっ、照れる」
「……」
結局、慎吾さんはグダグダと説教染みた言葉の数々を私に諭すように言って聞かせた後、着替えが無いから一旦家に戻ると言って夜中の三時頃に私の家を出た。
お見送りをしようと一緒に玄関先まで行った私に、スニーカーの踵に指を入れて靴を履きながら『なんだか新婚さんみたいだな』と嬉しそうにしていた。なので、私はそんな慎吾さんの望みを少しでも叶えてあげようと『今日は早く帰ってきてねー』と思いっきり棒読みで言ったにも関わらず、どうやらまだ見ぬ未来の新妻の猫なで声にでも聞こえたのか、既に新婚フィルターがかかっていた慎吾さんは味を占め、“いってらっしゃい”のオプションも催促されてしまった。
左手首は未だに慎吾さんの手で拘束されていて、動かそうとすればそれを許さないと慎吾さんが阻む。ならば、と右の手を床について起き上がろうとすれば、私の真上にいる慎吾さんはそこをどく気は無いのか、単に慎吾さんと自分の距離を縮めるだけの結果となってしまった。
頭の上では相変わらずテレビから喘ぐ声が響き渡っている。まるでこっちの空気を読んでくれないこの映画の展開に、耳を塞ぎたくとも空いている手が私にはもう無かった。
「……あのう」
「なに?」
「どいてくれませんか?」
「くれません」
――ああ、そうですか
予想通りの返答に思わず舌打ちをしそうになる。取りあえず、慎吾さんの顔が真正面にあるのが気になるので、視線をわざと逸らしてこの状況からどうやって抜け出すべきかを考えていた。
「――。……ひゃっ!?」
斜めになった身体を支えていた右手首を掬われて、支えの無くなった身体はいとも簡単に崩れ落ちる。ふたたび畳に背中をつけた私の動きを一切封じるようにして、今度は両手首とも畳に縫い付けられた。
いつまでも続く悪ふざけに我慢ならなくなった私は、キッと慎吾さんに鋭い視線を向ける。そんな私の表情を見てか、慎吾さんが“お?”と言うような顔をした。
「いい加減にしないと、流石の私でも怒りますよ?」
「怒る? それだけ?」
「ふざけないで下さい」
「ふざけてないよ。逃げられるんだったら、逃げてみなよ?」
「っ!!」
慎吾さんのその挑発に乗った私は身体をバタつかせ、慎吾さんを跳ね除けようと必死でもがいた。だが、もがけばもがくほど手首に込められる力が増すだけで、一向に慎吾さんの下から抜け出る事が出来ない。
額に汗が薄っすらと浮かぶほど暴れに暴れてみたが、結局状況は変わらず私は無駄に体力を消耗しただけとなる。連日勤務による睡眠不足がたたっているのか、いつにも増して力が入らない。
「どうしたの? もう終り?」
ニヤリとした表情で私を見下ろしている慎吾さんに、軽く殺意を覚えた。
「もう、勘弁して下さい」
「……仕方ない、許してあげよう」
両手首を解放すると、慎吾さんは身体を起こした。続いて私も身体を起こし、拘束されて血流の止められていた手首をさする。
「もう、何なんですか」
「んー、ちょっとムッとしてさ」
「はぁ!?」
ちょっとムッとしたくらいでいちいち人を押し倒していたら、店で何人押し倒さないといけないと思ってるんだこの人は。
客にレジで『ガラム』って言われて、コンビニにそんなもんおいとるかって叫びたいのをぐっとこらえ、比較的冷静に『置いてないんです』と言った返事が『チッ、使えねー』とかだったら、慎吾さんはそいつを押し倒すのか!? 仕方ないとばかりに『んじゃ、マイルドセブン』って言いなおされて、レジの後ろに配置されている大量に並べられたタバコの陳列棚からマイルドセブンを探し当て、戻って来た瞬間『ライト』って付け加えられたりしたら? イラッとしながらもライトと交換して『あ、やっぱりスーパーライト』とか言われてしまったとしたら? ……慎吾さんは一体どうなってしまうんだろう。想像しただけでも恐ろしくなるぞ。
「歩ちゃん、無防備すぎるよ。こんな夜中に何のためらいも無く男を自宅に上げた上に、風呂まで使わせて挙げ句の果てに泊まっていけだなんて」
「いや、それは慎吾さんだからですよ。他の男の人にはそんな事しませんて」
「うわっ、グサッと来るなその言葉」
「褒め言葉ですよ。慎吾さんはそんな事する人じゃないって思ってますから」
「ふーん」
本心から納得してなさそうな顔をして、慎吾さんは胡坐をかいていた足を組みなおした。テーブルの上のコーヒーに手を伸ばし一口それを口に含む。すぐにマグを戻すと、両膝の上に自分の両手をパンッと乗せた。
「でも、さっきのでわかったよね? どんなにあがいたところで、男の力には勝てっこ無いんだって事」
「まさかですけど……、わざわざそれを教えるためにあんな事したんですか?」
「そう。口で言ってもわかってくれなさそうだったし」
「あ、悪趣味……」
一際冷ややかな視線を慎吾さんに送り、私は自然と身体を遠ざけた。
「あ、また酷い事を言う! 僕はあまりにも無防備な歩ちゃんが心配になったから、仕方なく、致し方なく! あんな恥ずかしい事をしたって言うのに」
なんで『仕方ない』って二度も言うのだ。そこを変に強調されると悪意があるとしか思えなくなるんですが。
「とにかく! ……さっきの小田桐ってやつ、気をつけなよ? あー言うタイプは何するかわからないから」
「少なくとも今練習した様な事態に陥る事は無いと思いますが……」
ああ、そうか。結局慎吾さんはとことん小田桐が信用出来ないんだな。と、ここで奴の名前が出て来た事で、慎吾さんの突飛な行動の意味するところがやっとわかった。
心配せずとも小田桐はおろか、私に近しい男性は誰も私の事を女扱いしない。酒は浴びるように飲むわ、背も一七〇センチとそこいらの男並みにあるわ、化粧なんて友達の結婚式とかで少しするくらいで普段は一切しない。極め付けにこのどーでもいーわってオーラが常ににじみ出ているのだから、女扱いしろって言う方が無理だろう。
まぁ、自業自得ではあるのだけれど。
「――」
――こんな私が“恋”をするなんて、到底無理なんだろうな。
改めてそう感じさせられて、ちょっぴりへこんでしまった。
「じゃあ、行ってきます!」
「はいはい、いってらっしゃい」
「うわっ、照れる」
「……」
結局、慎吾さんはグダグダと説教染みた言葉の数々を私に諭すように言って聞かせた後、着替えが無いから一旦家に戻ると言って夜中の三時頃に私の家を出た。
お見送りをしようと一緒に玄関先まで行った私に、スニーカーの踵に指を入れて靴を履きながら『なんだか新婚さんみたいだな』と嬉しそうにしていた。なので、私はそんな慎吾さんの望みを少しでも叶えてあげようと『今日は早く帰ってきてねー』と思いっきり棒読みで言ったにも関わらず、どうやらまだ見ぬ未来の新妻の猫なで声にでも聞こえたのか、既に新婚フィルターがかかっていた慎吾さんは味を占め、“いってらっしゃい”のオプションも催促されてしまった。