B級彼女とS級彼氏
半ば強引に連れてこられた小田桐の家だと言うマンションは、驚いた事に私の勤めるコンビニの三軒隣にある、見るからに高級そうなマンションだった。
エントランスで私たちの行く手を阻む大きなガラス戸は、小田桐の手によりピピピッと簡単に開け放たれる。普通の人がやる分には何とも思わないのに、小田桐がやるとまるで闇の地下組織へと通じる扉の暗号を解除しているかの様に見えてしまうから不思議だ。
と、そんな物騒な事を考えている間に、チンっと軽い音と共に足元がふわっと浮く感じがした。先程までは軽く握り締められていた手首が急に圧を増し、その箱の中から引きずり出されるようにして小田桐と一緒に飛び出た。
とある部屋の扉の前。小田桐はズボンのポケットに手を突っ込むと、部屋の鍵らしきものを取り出す。慣れた手つきでそのドアを開けた途端ぐいと手を引っ張られた私は、そのまま玄関の中へと押し込まれてしまった。
これでもう逃げられまいとでも思ったのか、そこでやっと私の手首は小田桐の手から解放された。
無駄にだだっ広い玄関で、手首を擦りながらボーっと立ち尽くす。どうすればいいかわからないと言った風の私を見て、小田桐の眉根がグッと寄った。
「さっさと入ってくんね? 邪魔なんだけど」
さっきまでの微妙な空気は一体なんだったのだと思うほどの冷たいその言葉に、いささか狐にでもつままれたかのような気分だ。まぁ、これがいつもの小田桐と言ってしまえばそれで終わりなんだけども。
さっきまでの小田桐はきっと何か考え事でもしてたのだろう。それこそ、部屋の掃除はいつしたかとか、部屋干ししてあるパンツは片付けたかなとか。仮にも私と言う女子を部屋に招き入れるのだし、それ位の気配りはして当然だろう。
何にせよ、普段通りの小田桐に戻った事で私も気兼ねなく文句を言いやすくなった。
「なっ、何で私があんたんちに来なきゃなんないわけ!? もう、帰るからそこどいてよ」
「ぎゃーすかぎゃーすか、っるっせーな。お前のそれ取ってやるんだよ。そん位少し考えたらわかるだろ?」
「その足りねー脳みそでも」って、何故にコイツはいつもいつも一言多いのだろうか。
瞬時に頭に血が上った私は小田桐をおしのけると、鼻息を荒くしながら扉の鍵に手を掛けた。
小田桐は本当に人を怒らせると言う技術に長けている。それはもう、これを生かした仕事があればきっといい線行くんじゃないかと思うほどに。
一瞬でもポーッとなりかけた自分が本当に恥ずかしくなった。
「あれ? やっぱ認めんだ。脳みそが足りねーってこと」
「はぁっ!?」
「俺が家に連れてきた意味がわかんねーから帰るんだろ?」
「そうじゃなっ……!」
「ま、気をつけて。さっさと家に帰ってタンスの引き出しから持ってくるの忘れた脳みそ取りに戻った方がいいんじゃね? ――ああ、でも芳野の事だから家に帰った途端に忘れて結局お前の脳みそは足りないまんま、ってのがオチだな」
正直、何が言いたいのかよくわからなかったが、私を馬鹿にしたいのだという事だけはわかった。
つらつらと意味不明な事を言って高らかに笑うと、小田桐は振り返りもせず部屋の中へと入って行った。
「……」
ブチッと、私の頭の中で何かが引き千切れる鈍い音が聞こえた。
「ぬ、ぬぁんですってぇー!?」
簡単に小田桐の挑発に乗ってしまった私は、ドスドスとまるで荒れ狂う怪獣のように小田桐の後を追って部屋へと入って行く。
「あんたねぇー!」
中央に置かれたソファーに既に腰を落ち着かせている小田桐に詰め寄ると、後方から別の声が聞こえた。
「聖夜(まさや)さん、お戻りになったの? ……あら? この間の」
人が居るとは知らずに大声を出した私に気付いたのか、奥の部屋から以前コンビニの裏口で小田桐を呼びに来た、フェロモン満開な女性が扉を開けてこちらを覗いていた。
その女性を見た途端、心臓がぎゅうっと苦しくなる。
「ああ、まだ起きてたのか梨乃(りの)。すまんな、騒がしくして」
小田桐のその言葉で更に胸が痛む。
――『まだ起きてたのか』と言うという事は、二人は一緒に住んでいる……って事?
「……、――いたた」
何だか一度に色んな事がわかった気がして、私の足りない脳みそじゃ上手く纏め上げる事が出来ない。思わず小田桐の挑発に乗ってここまで来てしまったけれども、本気で脳みそを取りに帰れば良かったと、今更ながら後悔した。
「どうした? 芳野」
胸の中心をぐっと掴んで顔を歪ませている私に気付いた小田桐が、少し心配そうな表情を浮かべて私を見た。でも、私はそんな小田桐に対して、どうせこの女性の前で優しい男のフリをしたいだけでそんな顔を見せるんだろ? と、柄にも無く少し嫉妬染みた事を頭の中で考えてしまう。
「な、なんでもない」
「――」
私の返事に対し、小田桐はどうも納得いかないと思っているのが顔に出ている。
ソファーからスッと立ち上がると、自分が座っていたソファーを指し示した。
「とりあえず、そこに座ってろ」
「も、いいから。私、かえ――」
「いいから、座れ!」
「ヒィッ!」
語気を強めながら凄まれ、私は逆らう事が出来ずに渋々ソファーに腰を落とした。
私がちゃんと座ったのを見届けると、小田桐は踵を返しキッチンの方へと向かう。その後を先程の女性が追いかけていった。
「聖夜さん、先にシャワー使ってもいいかしら?」
「ん? ああ、そんな事気にしなくていいから、好きに入れ」
「そういうわけにはいかないわ。私の家じゃないんだもの」
「――勝手にしろ」
いくら小田桐の家が広くともキッチンでの会話位は届く距離にいる。二人の会話を一言一句聞き漏らす事無く耳に入れた私は、妙な寒気に襲われた。
自分を抱き締めるようにして両腕を擦り、焦点の合わない目でテーブルの上に置かれた吸殻まみれの灰皿をじっと見つめる。よくよく見ると、その中には赤い口紅のついた煙草も数本混じっていた。
「あの?」
「……あ、はい?」
先程の女性が私に話しかけてきた。
「私、明日早いのでお先に失礼させていただきますが、どうぞごゆっくりなさって下さいね?」
「あ! はい。――や、いえ! すぐに失礼します!」
「お前なぁ、いい加減に……」
立ち上がろうとした私を、タイミング良くキッチンから戻ってきた小田桐が睨みつけてくる。シャツの袖を捲り腕についた雫も拭かぬまま近づいて来る小田桐の手には、湯気がもわもわと上がったタオルが握り締められていた。
「やっぱ、私帰るって」
「座れ」
私たちのやりとりが余程おかしいのか、先程の女性はクスクスと笑いながらパタンと扉を閉めてどこかへ行ってしまった。
隣に立つ小田桐を見上げれば、ズモモモモと効果音が聞こえそうなほどに真っ黒な何かを纏い、ギロリと私を見下ろしている。その威圧感に負けた私は、仕方なく再び腰を落ち着かせると、小田桐は私の横に並んで座った。