B級彼女とS級彼氏
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「おい芳野、悪かったって。ちょっとした悪ふざけだろ? あれぐらいでいちいち不貞腐れんなよ」
「うるさい! あんたなんかほんっと大嫌い! ついてくんな!」
張り手を浴びせた後、小田桐を押し退けるとそのままあいつのお腹を踏んづけて部屋を飛び出して来た。
心臓が止まってしまうんじゃないかと思うほど緊張したと言うのに、思った通り当の本人は「ただの悪ふざけだ」と言ってのけた。
明日の昼勤までに、何とかしてこの髪に付着したスライムを取らないといけないというのに、何故あいつの悪ふざけに付き合わなければならなかったのか。そう思うと腹の底から更なる怒りがこみ上げてきて、もっと殴ってやれば良かったと後悔した。
長い廊下を進むとやっとエレベーターホールに辿り着き、私は下の階へ降りるボタンを連打する。すぐに追いついた小田桐は、さっきから同じセリフを何度も繰り返していた。
――もううんざりだ。
何で私だけこう何度も何度もこいつに振り回され、馬鹿にされなければならないのか。小田桐の周りにはこんな風にからかって楽しめる相手は他に居ないのか。
せっかくあいつの事を見直し掛けていたのに、蓋を開けてみれば昔の傷を更に深くえぐっただけ。
「ふざけんな」
ポツリと呟いた言葉は、小田桐には届かなかった。
「なぁ、マジで送ってくって」
「結構です! 私、店に自転車置いてるんで」
「そんなもん、置いていったらいいだろ」
「明日が困るの!」
「芳野」
「――」
「ごめん」
「……っ、うるさいって」
こんな時に限って、なかなかエレベーターが到着しない。その所為で無駄に小田桐とお喋りをする羽目になる。顔こそ見えないが、声の調子から本当に反省しているのがわかった。
太いワイヤーが勢いよく巻かれ、エレベーターホールに明かりが零れる。やっとこのふざけた空間から立ち去る事が出来ると思うと、ホッと安堵の息が零れた。
「お前、やっと俺の事認めたのな」
「は?」
いやいや。認めるも何も、さっきの時点で一気に小田桐と言う存在自体を、この世から抹消したいと心から願ってるんですがね。
これほどまで、エレベーターの扉が開くのが遅いと感じたことは無い。一秒でも早くここから離れたくて、しつこくボタンを連打した。
「お前の働いてる店で会ってからずっと、お前俺の事知らないって言ってたろ? けど、こないだ店の裏口で俺の部屋着をお前に渡そうとした時、俺の事名前で呼んだじゃん? 『小田桐』って」
「――」
――何だ、そんな事? ……くだらない。
やっと扉の開いたエレベーターに乗り込み、またボタンを連打する。
「嬉しかった」
その言葉を耳にした時。頑なに目を合わせまいとしていたのも忘れ、思わず顔を上げてしまう。
「……っ」
完全に扉が閉まりきる前に見た彼の顔には、何故か穏やかな笑みが浮かんでいた。