B級彼女とS級彼氏
一気に辺りが静まり返り、通常の朝の通勤風景に変わる。それでも、この日本人離れした小田桐の出で立ちはかなり浮いているものがあった。
黒っぽい細身のスーツにノーネクタイ。ボタンがいくつか開けられたシャツから男らしい喉仏を晒し、男の色気を漂わせている。……のが、いつもの小田桐なのだが、今日はバイクを乗っているからなのかいつもと雰囲気が全く違った。おそらくヴィンテージもののジーンズに、まるで今から登山でも行くのかと思うようなつま先の丸まったガボッとした靴。白いTシャツの上には袖を軽く折った赤いチェックのシャツを羽織り、首元には黒い紐のアクセサリーをつけている。ただ、それだけなのに、スタイルがいいとどんなに平凡な服装でも小洒落て見える。まさに小田桐がそのいい見本だった。
「で、何? 急いでるから用件は簡潔にお願いします」
私が話をする為に立ち止まった事に気付くと、小田桐はヘルメットを脱いだ。片手でその長めの髪を軽く掻き揚げ、そのまま頭頂部でくしゃくしゃと髪をいじっている。
「あー、……昨日はマジで悪かった。反省してる」
落ち着かない様子でキョロキョロと目を泳がせ、少し照れくさそうにしながら謝罪の言葉を述べた。
わざわざそんな事を言う為に来たのかと思うと、怒りが簡単に収まってしまいそうになるから不思議だ。今まで人に謝るなんて事は絶対にしない男だと思っていたからこそ、この謝罪はとても貴重なものなのだと感じる。
「――」
「その、梨乃にもこっぴどく言われた。俺が全部悪いからちゃんと謝ってこいって」
「は?」
『梨乃にも』って、何でここで梨乃さんが出てくるのかがわからない。
「あんた……まさかだとは思うけど、梨乃さんに昨日の事話したの?」
「え? あ、ああ。お前が突然飛び出して行ったから、どうしたんだって聞かれて。……まずかったか?」
「全部?」
「? ああ、まぁそうだな。俺の覚えてる限りでだが」
飄々と何も悪びれる事無く言ってのけた小田桐に、私は開いた口が塞がらなくなってしまった。
――全部って……全部? た、勃つか試してみたとかも言ったってワケ?
なんだか頭の中がぐるぐるして来た。七年前のあの頃に比べると、随分小田桐の扱い方がわからなくなっている。あいつの考えている事なら手に取るようにわかっていたはずが、今の私は小田桐の言葉一つ一つに動揺し、あいつが何か行動を起こす度にびくついている。
振り回されている。そう感じながらも、わざわざ頭を下げに来た小田桐のことが気にかかってしまう自分が居るのも確か。しかも、気になるのは小田桐だけじゃない。小田桐の周りを取り巻く人たち全てが私は何故だか気になってしまう。
――特に、あの梨乃さんって人が。
「り、梨乃さんって一体何なの? あんた達、付き合ってるんじゃないの?」
心の中で言ったつもりが、つい言葉に出して言ってしまっていた。
そんな事聞いて一体どうする? 二人が付き合っていようがいまいが、私には何の関係もないじゃない。
「俺が梨乃と? はっ、ありえん」
なのに、速攻否定した小田桐にどこか安堵している自分がいる。そんな自分がとても気持ち悪かった。
「そんなの、赤の他人の男と同居して、そんな話までする日本語教師って普通いないでしょ? 謝って来いって言われたからって、小田桐みたいなカタブツな人間を簡単に動かせる程、頭が上がらない人なの? それとも何か弱みでも握られてんの!?」
私は何をそんなにムキになってるんだろう。まるで、別の自分がすぐ側で自分の様子を観察している様な感覚に陥った。
「まぁ、頭が上がらないっちゃぁ上がらないし、弱みを握られてるっちゃぁ握られてるかな」
イマイチはっきりとしない小田桐の返答に、自分の意思とは反してどんどん感情が高ぶり始める。問い詰める私に対し、聞かれた事だけを答える小田桐。傍から見れば、痴情のもつれから騒いでいるカップルの様に見えるのかもしれない。駄目だ、完全に小田桐のペースにのまれてしまっている。あいつはそんな風に思っていないのかも知れないけれど、気付いたら自分だけが興奮していてみっともないったらありゃしない。
今ここに恵美ちゃんが居なくて本当に良かったと安堵する。きっと彼女なら、私が梨乃さんに嫉妬してるって言いかねないだろうから。
「何なのよ……、あの人。 あんな簡単に、ひ、ひ、ひに、」
「避妊?」
「――っ! そ、それよ! 何でそんな事言われて普通に返事してるのか、サッ…パリ! わからない」
「そりゃ、お前。俺の今置かれている立場的にだな。若気の至りとは言え女を妊娠させちまったら、うちの親父になんて言われるか。首どころじゃすまされんぞ?」
ああ、朝から私はなんてディープな会話をしているんだろう。熱くなりすぎて、人の事を言えないくらい結構な大声で喋っていた事に気付き、慌てて声を絞った。
「かっ、仮にそうなったとして、なんで梨乃さんが責任負わなきゃなんないのよ」
「そう言う名目で親父に雇われてるからな。言わば監視役?」
この男はどんだけふしだらに生きてきたのかと。
私の冷ややかな視線を感じたのか、小田桐は慌ててこの話を終わらせようと急にまとめに入った。
「ま、とりあえず俺、お前にちゃんと謝ったからな。もう、昨日の事はちゃっちゃと忘れて水になが――」
「流せるかっ! ドあほ!!」
「ドあっ? ……って、おい! 芳野! 話はまだ終わってないぞ!」
呼び止める小田桐を無視して、私はまるで競輪選手並みに必死でペダルを漕いだ。あいつは急いでヘルメットを被り、一旦切ったエンジンを掛けなおそうとしている。エンジンが掛かってしまえばすぐに追いつかれるとわかっていたから、私はこのまま自転車と人しか通れない駅の下を通過しようと目論んだ。そして、その作戦は成功し、後一歩で追いつかれそうになったところで小田桐をまき、背中越しにまだ何かを言っていたが一切振り返る事無く、ひたすら自転車を漕ぎまくった。
「はぁ、しつっこ」
流石にここまで追って来るのは不可能だと言う所まで来ると、私はペダルを漕ぐスピードを緩める。まぁ、ここでまく事が出来たとしても、職場も家の場所もバレているのだから、また懲りずに現れるかもしれないけれども。
それにしても、『忘れろ』だなんて随分勝手な事を言いやがる。あいつにとって女を押し倒すなんて事は日常茶飯事なのかも知れないが、私にとってはこれからの長い人生、一度か二度、あるかないか位の貴重な体験だと言うのに。って、よくよく考えたら、慎吾さんと小田桐とでその二度とも使い果たしているではないか。しかも、こんな短期間で……。
「はぁー……」
いよいよもって、この先素敵な誰かと恋をする事も、ありきたりな少女漫画の様に押し倒されたりする事も無く、このまま枯れていってしまうのかと思うとやり切れない思いで胸が一杯になってしまった。