名前を教えてあげる。
24歳の秋⑴
ああ…まただ。
その目。
小刻みに動き、何かを訴えかけるような…同情を引き出そうとするかのような。
救いを求めるような黒い瞳。
五百部美緒(いおべみお)は、ファーの付いたブーツを履いた後、玄関で振り返った。
「ママ…本当にいっちゃうの?何時頃帰って来るの?」
ふっくらとした頬っぺたに小さな唇。
肩までのシルクみたいな髪の毛。
透き通った眼で見上げる我が子が愛しくなって、抱き締めたい衝動に駆られる。
しかし、美緒は白いダウンベストのポケットから右手を出すのを堪えた。
台所の壁に取り付けられた円形の掛け時計は、5時を差している。
もう、出なければ遅刻してしまう。
掻き入れ時の金曜日の夜だ。
また遅刻ギリギリでは、店長に嫌な顔をされてしまう。
「ごめんね…恵理奈(えりな)。
今日は帰るの恵理奈がねんねしてる間になっちゃうと思う…」
「やだあ…」
恵理奈の眉と唇が歪む。
そんな顔をすると、ますます大きな二重瞼の瞳が父親そっくりになった。
たまらなくなり、美緒の右手が恵理奈の頭にそっと触れようとした瞬間。
恵理奈の身体がびくり、と揺れた。
身構えるように肩を竦めて。
何かから身を護るように。
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