名前を教えてあげる。


「あれ、なんか…?」


トイレから出た時、ふと、いつもより身体が軽いことに気付いた。
頭の中もすっきりしている。


毎晩、恵理奈が泣く度に抱っこしてあやしたり、ミルクを与えたりするのを、昨晩は順がやってくれた。


朝まで1度も起き上がることなく寝たのは、久しぶりだった。


台所の流し台の上に、ラップがかけられたハムエッグと伏せたコーヒーカップが置かれていた。


その横に並べるようにして置かれた1枚の紙。


「…書いてくれたんだ…」


美緒はそれを手に取った。



『術前・術後の注意事項を守り手術経過について異議を申し立てません』という文言の下の署名欄に『中里順』のサインとこのアパートの住所が書かれていた。


四角ばった几帳面な文字。

少し前までこの字は、数字とアルファベットの羅列にしか見えない複雑な数式を解いていた。


頭の中で答えが解けるまでシャーペンを指先でクルクルと繰り返し、廻すのが順のくせだった。

その器用な仕草に感心して、美緒も練習したけれど、全然ダメで諦めた。


ーーそんなもん出来ても偉くねえよ。


順が笑いながら言った。


そんな頃が遠く昔に思える。


初夏の晴天だった。
窓から抜けるような青い空をみて、
「海に行きたいな…」と思う。



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