名前を教えてあげる。
24歳の秋⑶・振り切れぬ過去
美緒は耳にスマートフォンを押し当てたまま、共同階段を駆け上っていた。
午後6時。
カンカンカン!という甲高いヒールの音が周囲に轟く。近所迷惑に違いなかったけれど、そうでもしないと気が済まなかった。
「もうっ、信じらんない!
ジョシダイセー伊藤このみは、お咎めなしなんだよ!
あいつがおにぎり作るの嫌がって、ぶうぶう言ってる隙に逃げられたんだっつうの!
それなのに、私、3千円も引かれてるの!ペナルティとかふざけんなっつうの!
あンのクソ店長!
あいつの腐った不倫暴露して、バイトやめてやる!」
1階から3階までのコンクリートの空間を、美緒の大きな声が響き渡る。
通話の相手は白河紀香だった。
『ひでえ〜
でも、不倫暴露はやめた方がいいよぉ。あのおばはんに刺されたら嫌じゃ〜ん…』
外見のわりに平和主義な紀香は、美緒を宥めようとして、のんびりした調子で言う。
「でもお、3千円だよ?
いや金額じゃない!嵐が来る夜に自分だけいい思いして、バイトをこき使って、ミスしたらハイ罰金ですって何よ!
防犯カメラも…ダミーで……さ……
あ…」
急に、風船の空気が萎んだみたいに美緒の声は勢いを無くした。