名前を教えてあげる。
こんな風に何かにつけて、順を思い出してしまうのは、もうクセだった。
(馬鹿だ〜…私)
こつんと拳であたまを叩いてから、歩き出した。
美緒が履いているゴムのサンダルは、離れの玄関に最初からあったものだ。誰が履いたかわからないそれを、美緒は履いている。
我ながら信じられない。
この田舎では、多少の不衛生さ、不便さ、臭いなど気にしていては暮らしていけないと、美緒は数時間にして知った。
「こんばんは……失礼します」
風呂場の脇から入り、母屋の土間と台所に続くガラス扉に手を掛けた。鍵は掛かっていない。
そっと開けるが、ガラガラ…という音が意外に響く。美緒は隙間から忍び込むようにして中に入った。
しんとした土間と台所。
奥から灯りが漏れ、テレビの音が聞こえる。
(まだ起きてる…)
サンダルを脱いで上がりたいのに、躊躇してしまう。
簡単なことなのに。
すっかり気後れして、冷えたコンクリの床に足が張り付いてしまったようになかなか動かなかった。
今まで、父親も母親もいないことが普通だった。
奥の座敷にいる男は、やっと巡り合えたこの地球上でただ1人の血の繋がった人間だ。
それなのに、めんと顔を合わせるのか怖かった。