名前を教えてあげる。
祖母は、小さな仏壇に母の遺影を置いていたから、母がかつてこの世に生きていたということは認識していた。
けれど、父については顔も名前も知らなかったから、実感が湧かなかった。好きだと嫌いだとか、会ってみたいと思ったこともない。
なんの感情も持てなかった。
祖母は美緒の父を嫌っていた。
というか、存在を否定していた。
ーー紗江(さえ)はあの男と一緒にならなかったら、幸せになれたのになあ…
仏壇に向かう祖母がそう言って、眉を歪めた記憶が蘇ってきた。
横須賀の、海辺にあった平屋建ての祖母と2人だけで住んでいた家で。
「おい、誰がいるのかあ?」
奥から声がして、
「はい!」
美緒は、思わず気を付けをして大きな声で答えた。
「入ってこいよお!茶でも飲もう」
「あ、じゃ、お邪魔します!」
板の間を突っ切り、皆で夕飯を食べた居間を抜けて、奥の襖を開けた。
ほのかな畳のい草の香りが鼻をくすぐる。
縞のパジャマにグレーのちゃんちゃんこを着た五郎が、古びた食器棚から湯呑を取り出しているところだった。
「すいません…こんな時間に。なんだか眠れなくて…」
美緒の言葉が聞こえなかったように、五郎は卓袱台の前に座り、ポットから急須に湯を入れた。
けれど、父については顔も名前も知らなかったから、実感が湧かなかった。好きだと嫌いだとか、会ってみたいと思ったこともない。
なんの感情も持てなかった。
祖母は美緒の父を嫌っていた。
というか、存在を否定していた。
ーー紗江(さえ)はあの男と一緒にならなかったら、幸せになれたのになあ…
仏壇に向かう祖母がそう言って、眉を歪めた記憶が蘇ってきた。
横須賀の、海辺にあった平屋建ての祖母と2人だけで住んでいた家で。
「おい、誰がいるのかあ?」
奥から声がして、
「はい!」
美緒は、思わず気を付けをして大きな声で答えた。
「入ってこいよお!茶でも飲もう」
「あ、じゃ、お邪魔します!」
板の間を突っ切り、皆で夕飯を食べた居間を抜けて、奥の襖を開けた。
ほのかな畳のい草の香りが鼻をくすぐる。
縞のパジャマにグレーのちゃんちゃんこを着た五郎が、古びた食器棚から湯呑を取り出しているところだった。
「すいません…こんな時間に。なんだか眠れなくて…」
美緒の言葉が聞こえなかったように、五郎は卓袱台の前に座り、ポットから急須に湯を入れた。