名前を教えてあげる。
「ううん、苦労なんてしてないよ…良い人たちに巡り合ってきたから。
いろいろあってシンママになっちゃったけど……ちゃんと養育費払ってもらってたの。だから恵理奈生んで幸せだったよ…」
五郎の身体からは、かすかに線香の匂いがした。
美緒は胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。
その夜、五郎は亡き妻紗江について、話を聞かせてくれた。
出会ったのは、俺が34歳の春だった…
大きなホールの警備員をしていたんだよ。
夜8時、帰り支度をしていたところに、若い女が詰め所の窓口を叩いた。
『どうしました?』
俺が訊くと、
『トウシューズの入った袋を観客席の下に置き忘れてしまったんです。探しにいってもいいですか?』
思い詰めたような顔でいうんだよ。
それが19歳の紗江だった。
その日の午後、紗江の通うバレエ教室の発表会のリハーサルがあったんだ。
俺は懐中電灯を持って、紗江と一緒にホールに行って探し物に付き合った。
探し物は無事見つかった。
紗江はとても喜んで、
『私、今度、白鳥の湖のオデットやるんです。始めてのプリマなんです。良かったら観に来てください!』
そう言ってチケットを俺にくれた。