名前を教えてあげる。
発表会が終わった次の日、紗江はまた詰め所を訪れた。
一輪の姫ひまわりを持って。
『昨日はわざわざ観に来て頂いて、素敵な花束ありがとうございました』
前の日、非番だった俺は紗江のバレエを観に行った。
バレエなんてガラじゃないが、夢を叶えた若い紗江を応援したくなったんだ。
そして、楽屋に赤い薔薇の花束を置いていった。
紗江はその御礼を言いに来てくれたんだ。
それがきっかけだった。俺と紗江が交際をするようになったのは……
15歳ものの年齢をとびこえて。
卓袱台の上の五郎の黒い湯呑。客用の紺地に白い水玉の茶碗。蜜柑の入った菓子鉢。初めて聴いた父と母の馴れ初め。
目の前にいる熟年男性はかつて、1人の女と恋に落ちた。
ティッシュを目に当て、鼻を赤くした美緒は少し笑いながら、五郎の話に相槌を打った。
2人の恋物語がハッピーエンドにならない事を知っていながら。
五郎がふいに立ち上がり、押入れを開けて何かを取り出した。
「これ」
寂しげな笑みを浮かべ、美緒に薄い革のアルバムを差し出した。
古びた茶色のそれを美緒が開くと、着物姿の若い女の記念写真が貼られていた。