名前を教えてあげる。


順が知るはずのない、さっき別れたばかりの男の名前。
その名前を順が発音した。


ズキン、と胸の先端に痛みが走った。
まるで、何かを主張するように。

さっきまで車の中で哲平は、美緒のその部分を口に含んで弄んでいた。


「あっ……」


男の唾液で汚れたままの体を順に見破られた気がして、慌てて両手を交差させて胸を隠した。
ドクドクと心臓が早鐘を打つ。


「……」


カサカサに渇いた順の厚めの唇が、次の言葉を言いたげに動く。
でも、声にならない。


その悲しげな順の瞳の中に、狼狽した自分の姿を見つけた美緒は、全身がガクガク震え出すのを抑えられなくなった。

順はまつ毛を伏せた。


美緒は呼吸が止まりそうな感覚に襲われ、立っていられなくなる。そばにあったパソコンデスクに手をついて、身体を支えた。


恐ろしいことが起きた。

起きてはいけないことが起きた。アナザーワールドと現実が混じり合ってしまった……


「嘘、哲平が電話なんて…どうやって?なんで……」


哲平が……

大好きだったのに。
兄のような存在だと慕っていたのに。

100パーセント信用していたのに…

笑顔の裏で哲平は、自分を憎んでいた…



隠されたどす黒い感情に、ただただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。


< 430 / 459 >

この作品をシェア

pagetop