博士と秘書のやさしい恋の始め方
布川先生の指摘に心臓がどきりとして頬が強張った。

だって、私には心当たりがあったから……。

現行のルールでは、秘書が代理申請できるのは物品購入に関する手続きと、上席研究員の旅費精算のみ。

だから、研究員の古賀先生や主任研究員の田中先生は、旅費精算を私に頼めない。

もちろん、テクニカルさんたちも、RAも。

にもかかわらず、本来はRA本人がやらなければならない手続きを、私は肩代わりしてしまったのだ。

「やっておいてあげるから」とまるまる請け負ったわけではない。

でも、本人と一緒に画面を見ながら「こうやるんですよ」などと説明しつつ、実際に操作をして処理を完了したのは私だった。

他人のIDとパスワードを勝手に使ってログインしたわけではない。

けれども、これはもう“なりすまし”のようなものだと思う。

「丹下先生のところのRAが“よそのラボの秘書は旅費精算をやってくれるのに。うちはダメだなんて不公平だ”って。むこうの秘書を困らせたらしくてね」

やっぱりこの件だった……。

さっき古賀先生が心配そうな顔をしていたのはこれだったんだ。

おそらく、電話で話す布川先生の会話がきこえて、それで。

秘書に秘書仲間のネットワークがあるように、RAたちにも仲間同士のつながりある。

布川先生の話によると、うちのラボのRAと丹下先生のラボのRAが知り合いだったようで。

「旅費精算が難しくて面倒くさい」と嘆くあちらのラボのRAに、うちのラボのRAが「うちは秘書がやってくれるよ」と自慢をしたのだ、と。

それで、あちらのラボのRAが不公平だと騒ぎ出して……。

まさかこんなふうによそのラボの秘書さんに迷惑をかけてしまうなんて。

そんなこと思ってもみなかった。

「すみませんっ。私のせいでご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

本当に心から申し訳なくて、深く深く頭を下げた。

「山下さんも現行のルールはよく知ってるよね?」

「はい……」

「うちの会計システムはお世辞にも使いやすいとは言えないし。難儀してるRAたちが気の毒で手伝ってあげたんでしょう。でも、他のラボとの足並みもあるから」

「はい」

「ルールはルールだし」

「はい、すみませんっ」

「甘やかすのもよくないしね。今後は教えるだけで、作業は本人にやらせるよう徹底してください」
「はいっ」

私は布川先生の言葉を肝に銘じて再び深く頭を下げた。

「いやね、ぼくは別に怒ってないからね。はい、もうこの話はおしまい。ほらほら、やり残している仕事があるなら席へ戻って片付けて」

「はい」

「そうそう、せっかく金曜なんだし定時退勤してもいいんだからね。明日は休みだから、来週にまわせるものはまわしなさい」

「はい。恐れ入ります……」

布川先生が感情的に怒鳴ったり長々とねちねち説諭したがる上司でなくて、私は恵まれていると思う。

けど、先生のご配慮はとても有難いのだけど、あまりに申し訳なくて。

今の私には余計に心苦しかった。
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