博士と秘書のやさしい恋の始め方
ちらし寿司に鯛のあら汁に茶碗蒸しという豪勢な昼飯は、周のお袋さんが用意してくれた。

周が言うには、俺が久しぶりに来ると知ってわざわざ腕をふるってくれたのだとか。

まったくありがたいことである。

周の家には子どもの頃から本当に世話になっている。

とくに、お袋さんにはよくしてもらった。

母親がいない俺を何かと気にかけてくれて、祖母だけでは行き届かないことをさりげなくフォローしてくれたのが周のお袋さんだった。

あいにく今は親父さんもお袋さんも仕事や所用で留守とのこと。

無沙汰を詫びることも、心のこもった昼食のお礼を言うこともできず残念だ。

「社内恋愛なんてよくあることでしょ? あ、おまえんとこは会社じゃなくて研究所だから、所内恋愛?」

「なんでもいいよ」

「っていうかさぁ、何か問題あるわけ? 職場恋愛禁止とか?」

「そんなわけないだろ」

決して問題があるわけではない。少なくとも、俺のほうは。

ただ、彼女に窮屈さを強いてしまうようで、面倒に巻き込んでしまうようで。

それが心苦しく気がかりだった。

学生時代、いくつものラボ内恋愛をみてきた。

もっとも、自分が当事者になったことはなかったが。

大学の研究室というところは、恋愛が発生しやすい場所なのかもしれない。

そして、色恋沙汰の揉め事も。

ラボの人間関係というのはドロドロしがちというか、一概には言えないのだろうが狭くて深くて濃密だ。

だからこそ、人間関係の揉め事は厄介だった。特に惚れた腫れたのごたごたは。

人の心は移ろうもの。悲しいかな、終わってしまう恋もある。

しかしながら、同じラボにいる恋人と別れたからといって、よそのラボへ移るわけにはいかない。

その狭いグループの中で変わらずやっていかねばならないのだから。

当人たちだけでなく、ラボ全体の雰囲気に影響がでることも往々にしてあった。

とにかく、ラボ内恋愛は窮屈で面倒でリスキーで、ときには傍迷惑なもの。

わざわざ面倒なリスクをとる人間の心理が理解できない。

それが俺の見解……の、はずだった。

「おまえ、まさか職場の人たちに交際宣言でもして付き合うつもりじゃないよね?」

「あり得ないだろ。大学のラボじゃあるまいし」

そう、俺が今いるのはラボといっていも大学ではないのだから。
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