博士と秘書のやさしい恋の始め方
大学のラボは公私の境界が中途半端なところがあった。

自由でオープンといえば聞こえはいいが、プライベートがまるわかりのような。

教員と学生――社会人と社会人未満の人間が混在する人間関係。

大きな組織ではあるが会社組織とは違う。

教育機関ではあるが、小中高のようなそれとも違う。

大学というのは良くも悪くも曖昧で、おおらかなゆるさがあった。

しかしながら、今のラボは大学のそれとはわけが違う。

「実は以前にね、僕んとこの職場で困った人たちがいたんだよ」

周は溜息まじりにやれやれという表情で箸を置くと、薬缶のような急須で志野の湯呑に茶を注いだ。

「困った人たち?」

「そう。困った若い人たち」

香ばしく薫る番茶を啜(すす)りながら、周は少し遠い目をした。

「式場の社員の男の子とバイトの女の子だったんだけどね。“こそこそしたくない”とか“黙っているのは皆をだましているみたいで嫌だ”とか言ってさ。よせばいいのにわざわざ公認カップルになって付き合い始めたの。でも、ダメになっちゃってね」

「それは確かに、困った人たちだな」

まさに大学のラボにいた困った人たちと同じパターンじゃないか。

「いいときは“ここで挙式しちゃえ”なんて盛り上がっていたんだけど、破局したらどう扱ってよいやら皆で苦慮してねぇ。結局、バイトの子は辞めちゃうし。社員の男の子もしばらくいたたまれない感じでさ」

「それは気まずい……というか、率直に言って迷惑だな」

心の中で大きくおおきく頷きながら、俺は周が淹れてくれた茶を二口三口と飲んだ。

「だろ? だいたいね、付き合ってることをわざわざ言う必要なんてないんだよ。言葉が足りないのは嘘にはならないんだし、黙ってるのは騙すことにはならないの」

「おまえ、昔からそれ言ってるよな。言葉が足りないのは嘘にはならないって」

相変わらずだなあと、俺はちょっとあきれて苦笑した。

「うるさいな……。とにかくさ、僕が思うに社内恋愛の類のそれって結婚が決まるまでは隠しおおすことがマナーなんじゃない? 責務ともいえるかもね」

「そうだな」

「仕事に私情ははさまない。周りをプライベートに巻き込まない。恋愛関係にあるのを秘密にするのは、職場に対する礼儀というか必要な配慮でしょ」

まったく同感だ。

もちろん、周囲に知られて余計な詮索や干渉をされたくないという当人たちの都合もあるわけだが。

< 117 / 226 >

この作品をシェア

pagetop