博士と秘書のやさしい恋の始め方
「僕は社内恋愛なんてしたことないし、これからもすることなさそうだけど。それでもさ、いろいろ大変そうってのは想像できるよ。おまえがするであろう気苦労とか」

周はおもしろそうにあははと笑うと、自分の湯呑と俺の湯呑に茶を注ぎ足した。

「おまえ、他人ごとだと思って……」

「だって、他人ごとだもの」

不貞腐れる俺を見て、周はいっそう愉快そうに笑った。

「まあ、あれだね。その秘書さんだっていろんな面倒をわかった上で付き合うことを了承してくれたんだろうしさ。こそこそ付き合っている間は、心苦しかったり後ろめたかったりするかもしれないけど、結婚前提の付き合いってわかっていれば我慢もできるもんね」

「(えっ……)」

周の言葉に頭が一瞬空白になった。

彼女は俺と付き合うことを了承してくれた……はず、だよな? 

互いが“特別”であることを確認して、ふたりで休日に出かける約束をしたのだから。

俺としては、これはもう付き合い始めたということになるのだが。

しかしながら、彼女にきちんと「結婚を前提に付き合って欲しい」と言って了承を得たわけではない。

そうすると――ひょっとして、俺はまだ交際相手として認められたわけではないのか? 

今はまだ、付き合うに値する男かどうかを見定めてもらう機会を得ただけにすぎないのか? 

急に自信がなくなってきた……。

「靖明?」

「……いや、なんでもない」

俺はどこまでバカなんだ、情けない……。

それでも、周に小馬鹿にされるのは御免だ。だから、なんでもないふうにお茶を濁した。

けれども――。

「まあ、おまえがその人にどう話をしたのかは聞かないけどね」

いささか動揺した俺の表情を周は目ざとく見逃さなかった。

「その秘書さん、何歳なの?」

「あ……」

知らない……。

俺より年下には違いないだろうが、正確な年齢を聞いたことがなかった。

見た目はとても可愛らしいこともあり若く見える。或いは、幼く見えるとも。

しかしながら、逆に中身はとてもしっかりしている。

そう、三角さんのような貫禄とは異なるが落ち着きを感じる。

今さらながら、俺は彼女の基本情報をあまり知らない。

そういえば、入職何年目かも知らないし、出身地も知らない。

ドイツ語を専攻していたことはたまたま人づてに聞いて知っていたが、出身大学は知らない。

俺が知っているのは、山下さんが真面目で優しくて仕事熱心なこと。

猫好きなこと。

段ボールに入ってみたり、白衣を着たがったり、ちょっと変わったお茶目なところがあるということ。

そして、俺のようなつまらない男を“特別”だと言ってくれる奇特な女性であるということ……それだけだ。

「その秘書さんとの結婚は考えてないわけ?」

周はいちいち嫌な聞き方をする。

俺だって、そのつもりがないわけではない。ただ――。

「おまえ、まさかこの期に及んでまだ“結婚という言葉を口にする自信がない”とか言うんじゃないだろうね?」

「それは……」


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