博士と秘書のやさしい恋の始め方
◇定時を過ぎたら……
夢のように楽しい休日が明けたら、恐ろしく忙しい地獄の日常が待っていた……。

今週はどういうわけか想定外の仕事が次から次へと舞い込んで、それをこなすので精いっぱい。

「田中先生のことばっかり考えて仕事にならなかったらどうしようっ」なーんて心配はまったくの杞憂だった。


「(あ、田中先生だ)」

急ぎの書類を届けに1号棟へ行った帰り、3号棟の1階で喫煙スペースから戻る田中先生の姿が見えた。

今日は忙しくて、先生とはほとんど会話らしい会話をしていない。

私はこれ幸いと声をかけようとした、のだけど――。

「Yasu(ヤス)!」

別の人に先を越されてしまった……。

先生に話しかけたのは、よそのラボの研究員。

確か、カナダから来られている人だったかな? 

ちなみに、田中先生だけでなく先生方はそれぞれに海外の研究者とやりとりをする際のニックネームをもっている。

田中先生は靖明でヤス、布川先生は紀彦(のりひこ)でノリ、古賀先生は健人(けんと)なのでそのままケント。

国によっては長い名前や発音しづらい名前もあるので、便宜上ということもある。

またそれだけでなく、最初にニックネームで呼び合うようにするのは、コミュニケーションを深めるためのストラテジーでもあるのかも。

それにしても――田中先生って、日本語より英語で話しているときのほうが、いきいきとして楽しそう。

すごく打ち解けた感じというか、気楽な感じというか。

愉快そうに英語で談笑する先生を眺めながら、そんなことをふと思った。

本人に聞いたことはないけど、先生って英語が好きなのかな?

ひょっとしたら、英語のほうがコミュニケーションがとりやすかったりするのかも。

先生は、率直・簡潔・明瞭を好む人のようだから。

どうやって英語を習得したのかは知らないけれど、田中先生って先生方の中ではかなり英語が得意なほうだと思う。

先生の英語はすごくキレイで聞きやすい。

でもそれって、意識的にそういう話し方をしているのかなって……最近ちょっと気がついた。

外国人の研究員の中には日本語が堪能の人もいるけれど、たいていの場合は互いに英語を使って話す。

だからと言って、外国人の研究員やRAの皆が英語圏の人というわけではない。

うちのラボのRAもほとんどがアジアの人たちで母語は英語じゃないし。

田中先生は相手に配慮してわかりやすい英語を話しているんだな、って……。

「おつかいの帰りですか?」

私に気づいた田中先生が話を切り上げてこちらへやってきた。


< 158 / 226 >

この作品をシェア

pagetop