博士と秘書のやさしい恋の始め方
「1号棟へ行ってきたんです。それより、お話はもういいんですか?」

「いつまでもサボっているわけにいかないので。俺も彼もね」

すました顔でしれっと言ってのける先生に、思わず「あらら」と苦笑する。

でも――。

「私も先生のこと言えないんです」

「というと?」

「ちょっとだけサボっちゃいました」

先生にそろりと近づいて、ひっそりと小声で懺悔する。

「サバ白がいたので写真を撮りたくなって、つい……」

「やつは1号棟のほうによく出没するようですね」

そんな話をしながら、ふたりでエレベーターに乗り込んだ。

私たちの他には乗る人はなく、ふたりきり。

それでも私は「節度を持って」先生と距離を置きつつ隣に並んだ。

「うちの研究所のエレベーターって防犯カメラがついてるんですよね」

「そうですね。高価な器材や機密扱いの資料もあるので」

ふたりきりのようでいて、実はそうではない密室。

顔を見合わせ苦笑する。

漫画やドラマで見るような甘くてドキドキのシチュエーションって、現実ではそうそう訪れないのかも、なんて……。

まったくもう、仕事中に何を考えているんだか。

「あ、そうだ。さっき撮ったサバ白の写真見せますね」

5階へ着いてすぐ、私は忘れぬうちにとスマホを取り出した。

「いいですね。お願いします」

先生は私に寄り添うように近づくと、猫の写真でいっぱいのスマホをのぞきこんだ。

「サバ白のやつ、緊張感がないですね」

「ですね。イイ感じにぐんにゃりして寝てました」

「猫は気楽で羨ましい」

先生の白衣の袖が、私のブラウスにかすかに触れる。

その微妙な距離がもどかしくって、なんだかちょっぴりくすぐったい。

私は周りに誰もいないのを確認しつつ小声で言った。

「先生、あの……」

「今夜は――」

「えっ」

「少しだけ残業に付き合ってください」

すごく嬉しかった。先生が私の気持ちを察してくれたことが。

「布川先生はこれから会議で出てしまうし、古賀先生も今日は定時であがると思うので。皆がいなくなったら、一緒に出ましょう」

「はいっ」

ドキドキしていた。

だって、今夜は待ちに待った金曜の夜だから。

「ミトコンドリアも待っています」

「楽しみです」

「俺もです」

嬉しさいっぱいで先生の顔を見上げると、先生も笑顔を返してくれた。
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