博士と秘書のやさしい恋の始め方
しかしながら、今はこの男にかまっている暇はない。時間が惜しい。

「では、行きましょうか」

「は、はいっ」

本当はむんずと手をつかんで、ずんずん歩いて連れていきたいところだった。もちろん自制したが。

すると、そんな俺をますます苛立たせるように、遊佐のいやらしい声が飛んできた。

「山下さーん。僕、幸せになりますから」

なんだこれは……。研究者には変わった人間が多いが(もちろん自分も含めて……)、この男の奇妙さは研究者のそれとはどうも異なる気がしてならない。

「どうぞ、お幸せに……」

沙理……??? 苦渋にみちた表情というのだろうか? 彼女のこんな顔を見るのは初めてだった。

いったい、あの男との間に何があったのだろう。ふたりで資料館を出てすぐ、俺はこのモヤモヤを払しょくするべく彼女と話したかった。

が、しかし――。

「沙理」

「あの、ごめんなさいっ」

「えっ」

「お話はまた後で必ずっ。午後からの研修に遅れちゃいそうだから走りますっ」

「ええっ」

「あっ。私はこっちだけど、靖明くんはシンポジウム会場行くなら、この道よりもC棟の脇を抜けていったほうが近道だから。猫もけっこう通るし。それじゃっ」

「ああ……」

行ってしまった……。

今度は嘘ではなく紛れもなく本当だ。

彼女はときどき突飛だったり不思議だったり、心理がいまいちよめないときがある。

しかしながら、嘘をついているかどうかに関しては非常にわかりやすい。

だから、おそらく本当に口実などではなく研修に遅れそうだったのだろう。そして、話はまた後で必ずというのも彼女の心からの言葉に違いない。

それにしても、布川先生の代理と聞いただけで俺の用件を察するとは。しかも、会場への順路にまで気を配るという徹底ぶり。

さすが敏腕秘書、山下沙理……。

まあ、俺と違って彼女にとって本所は勝手知ったる古巣なわけだが。

そういえば、彼女が本所にいた頃の話を、まだあまり聞いたことがない。

ふとそう思ったら、唐突に三角さんとの午前中の会話が頭をよぎった。

“きっと本所に彼氏でもいるんじゃない? そうだよね、いなきゃおかしいでしょ”か……。

バカだな、俺は。大切なのは「今」じゃないか。過去に何があろうとも、誰がいようとも。

まったく何を感情的になっていたんだか……。

情けなく脱力して、小さく「ふぅ」と息をつく。

仕事、しないとな。

そうして俺は気を取り直して、猫もけっこう通るという彼女が教えてくれた近道を目指して歩き始めた。

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