博士と秘書のやさしい恋の始め方
夕方。待ち合わせ場所に現れた彼女は、とても晴れ晴れとした顔をしていた。

「ごめんなさいっ、お待たせしちゃって」

「気にすることはない」

例えば「俺も今きたところだから」とか? そんな優しい嘘は言わない。必要ないから。

俺たちは互いに待ち時間を有効利用する術を持っているし、互いが相手を待たせぬよう最善を尽くす主義であるのも知っている。

だから、少々待たせからといってあまり気にやむ必要もないし、待たされてもそうそう腹が立つこともない。

「とりあえず出ようか」

「はい」

「夕飯、どうするかな」

「じゃあ、よかったら私の知ってるお店に行ってみます?」

いつもと変わらぬ他愛のない会話、ふたりの距離。

昼間のことについては、なんとなく触れずにいた。俺からも、彼女からも。

正直、ずっと気になっているのは確かだった。しかし同時に、なんとなくこのまま何も聞かないほうがよいのではと……そんなふうにも思われた。

過去は過去、だからな。

恋人だからといって、相手に自分の過去を具(つぶさ)に説明する義務はないし。また、相手の知りたくもない過去を把握する義務もない。

そう――知りたくないのなら、知らなくても……。

「ちょっと季節はずれみたいですけど。ここ、すごく美味しいお店なんです」

彼女が案内してくれたのはロシア料理の店だった。

確かに、ロシア料理というと寒い冬に食べたい温かいメニューが印象的だが。冷房のガンガン効いたこの店内であれば、問題なくボルシチもピロシキも美味かろう。

「シンポジウム、お疲れさまでした」

「研修、お疲れ様」

「本当にかなり疲れました。でも、すっごく充実した研修会だったんです」

彼女がニコニコ笑いながら、ジャムと氷の入った冷たいロシア紅茶をストローでからんとかき混ぜる。

その落ち着いた仕草も、屈託のない愛くるしい笑顔も――いつもどおり、だよな? 

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