博士と秘書のやさしい恋の始め方
恋って本当に人をどうにでもしてしまうのだ。美しくもすれば醜くもし、強くもすればダメにもする。

恋することに酔いしれた愚かな私は、信じて決して疑わなかった。自分は彼の“特別”なのだと。

けれども……半年以上、一年未満、終わりはあっけないものだった。

「山下さん、ビッグニュースよ! 遊佐先生、再来月からドイツですって!」

私はそれをあろうことか彼本人ではなく、秘書の山根さんから聞かされた。

これにはさすがの私も愕然として、昼休みに彼をつかまえてどういうことかと詰め寄った。

「公けにするまで誰にも話せるわけないだろ?」

悪びれもせずさらりと言ってのける彼に私は茫然とした。

自分が“特別”などではないことを、思い知らされた瞬間だった。

「君にはずいぶん世話になったね。なによりドイツ語が上達したし、あちらの文化や習慣やなんかもけっこう教えてもらったし。感謝してる。ありがとう」

それだけですか……?

心の中では思っても、その台詞は実際の言葉にはならなかった。

恋の魔法は解け、私は真実を知った。

おそらく、私と親しくなったときにはもうドイツ行きはほぼ決定の射程圏内にあったのだろう。そういえば、ドイツ人が喜びそうな日本のお土産を聞かれたこともあったっけ……。

彼は私を便利に利用したのだ。

冷静に考えれば考えるほど、彼に巧妙にはめられた気がする。

彼は一度でも私に「好きだ」と言ったことがあったか。「付き合おう」と互いの気持ちを確かめ合って始まった関係だったのか。

どれもこれも、全部違う。私たちの関係はとても曖昧で不確かで……。だからこそ、彼はこうして堂々としていられるのだろう。

まるで「僕らは何か約束していた?」とでも言いたげな彼の笑顔。そんな彼を目の前にして、言葉も表情もなくしてしまった私。

言いたいことは山ほどあるはずなのに、抗議する術が見つからない。こうなることさえ、おそらく彼には計算づくだったのだろう。
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