博士と秘書のやさしい恋の始め方
ふたりきりの研究室に流れる重苦しい沈黙。もっとも、痛くて重いのは私だけで彼にはなんともないのかもしれないけど。

そんな状況のところへ――。

「あれ? 吉永(よしなが)研の秘書さんですよね?」

昼休みを終えた彼の同僚の先生方が戻ってきた。

「あ、えと……」

「彼女、ボスに用事があって来たのに今日は終日外勤じゃないですか。だから、申し訳ないけどまた出直してくれって話していたところなんですよ」

私が答えるより早く、遊佐先生はぺらりぺらりそんな都合のよい嘘をつき、私はまるで追い立てられるようにして、その場を立ち去ることになった。

遊佐先生とは、それっきり。

私は何も言わず黙ったままでいた。言わなかったというより、言えなかったのだ。

「私のことは遊びだったのか」と問いただしたとして「そのとおりだ」と言われても……そんなの、惨めさに追い打ちをかけるだけだもの。

それに、すべてを捨ててドイツへついて行きたいと思うほど彼のことが好きだったのかと問われると……正直、わからなかった。

不幸中の幸いというか、救いだったのは、遊佐先生とのことを山根さんに気づかれなかったことだろうか。

遊佐先生が日本を発ったあと、私はいっそう仕事にのめりこみ、趣味の書道はそっちのけでスキルアップの勉強に励んだ。自分に自信をもたせてくれる何かが欲しかった。

遊佐先生に未練は残らなかったけど、恋愛にはちょっとした後遺症が残った。研究者を好きになるなんてもう懲り懲りという……。

この後遺症のせいで、ただでさえ出会いが少ないのに、職場での縁はいっそう望めない気がしていた。
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