博士と秘書のやさしい恋の始め方
真鍋さんも帰り、実験室にひとりきり。静かにまわるファンの音と、ときおり機械が発するブォーンという低音だけが部屋に響く。

実を言うと、地味に黙々と実験するのが意外と好きだ。もともと手先を使う作業が嫌いではないし。

毎日年中こればかりというのは性に合わない気がするが、たまにであればちょっとした気分転換にもなる。

どれくらいの時間が経っただろう。一連の作業に没頭し、もう少しで一区切りというときだった。

誰かがドアをコツコツコツと叩く音がした。

うちのラボの人間はみんな帰ったはずだが……誰だろう? 

「あのぅ、失礼します」

遠慮がちにドアを開けてそっと顔をだしたのは山下さんだった。

「どうしたんですか?」

何故こんなところに? 今日はもうとっくに帰ったはずだったのでは?

「今日は秘書の集いだったのです」

山下さんはドア口に立ったまま答えた。

「秘書の集い、ですか?」

「はい。5階の秘書三人で集まって下のカフェでご飯を食べてたんです。あっ、先生ご存知ですか? 今ね、カフェで北海道フェアやってるんですよ」

カフェというのは食堂とは別の小さなカフェテリアで、夕方定時を過ぎるとアルコールも解禁して営業している。感じとしてはホテルのラウンジを少し小さくしたような店舗だろうか。

昼間は女性職員がランチで利用していたり、夕方になると外国人の研究員が酒を飲みながら談笑していたりする。

「知りませんでした、北海道フェア」

なんだかデパートの物産展みたいなネーミングだな……。

「それで、その後で忘れ物に気づいてラボに戻ったら田中先生がこちらに残っていらっしゃるようだったので……なんとなく、来ちゃいました」

ちょっと困ったようにふにゃりと笑う山下さん。仕事中には見たことのないその表情に、正直ちょっと――どきりとした。

彼女はいつだって穏やかで、それでいてシャキシャキ仕事をこなしていて。けれども、今こうして俺と話している山下さんは普段とは少々違う感じがした。

なんというか、おそらく仕事中はしまってあるプライベートな一面を垣間見ているような。

「北海道フェア、美味しかったですよ。とっても」

「それはよかった」

それより、山下さん――。

「よかったらそんなところに立っていないで入ったらどうですか?」

「いいの、ですか……?」

おっ、なんだか嬉しそうだ。入りたいけど入りづらくて様子を見ていたのだろうか。

「どうぞ。かまいませんよ」

「では、ちょっとだけ……お邪魔します」

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