博士と秘書のやさしい恋の始め方
あたりをきょろきょろ見回しながら、何やら慎重に歩みを進める山下さん。

そういえば、彼女とここで話をするのは初めてだ。

廊下から入ってすぐの白衣や靴箱が置いてあるスペースはともかく、実際に実験作業を行うこちらの部屋に山下さんが出入りするのを見たことがない。

「ここへ入るのは初めてですか?」

「二回目です。前に一度、引き継ぎのときに持田さんに案内していただいたので」

そうか、ちょうど俺が会議でB大病院へ行っていなかった日か。

他のスタッフは皆、その日に山下さんと顔合わせができたのに、俺だけひとり会えなくて。

そのせいで――。

「田中先生の白衣姿、久しぶりに見ました」

「基本的に実験するときしか着ないので」

「ちょうど初めてお会いしたときも白衣でした」

「そうでしたね」

四月の始まりの朝、俺はあなたがうちのラボの新しい秘書だとわからなかった。

あの日は早出をして、早朝からずっと誰もいない実験室で作業をしていて。

気分転換も兼ねて、わざわざ外の喫煙所まで降りて行ったところだった。

そうしたら、サバ柄の猫と遭遇して。その場面を、あなたに目撃された。

「あの、もしご迷惑でなければ、ちょっとだけ近くで見ていてもかまいませんか?」

「いいですよ。まあ、ひたすら地味な作業なんで、見ていておもしろいかどうかわかりませんが」

ふたつの液体を混ぜたら煙が出て色が変わるとか? 

実験失敗で爆発が起きて、頭がアフロになって口から粉を吹くとか? 

そういった漫画的な展開とは無縁な単調な作業。

それでも、山下さんは傍らの回転式の丸椅子に腰かけて、じっと真剣に俺の手元を見つめていた。

なんというか、こう見られていると……少々やりづらい。

いや、決して迷惑だとか不快だとかではなく。

RAに実験の手ほどきをする為に見せる分にはまったく緊張などしないのだが、山下さんの視線はどうにもこうにも……ちょっとまいる。

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