博士と秘書のやさしい恋の始め方
おそらくそうだろうと思った。ここへ入ってきたとき手ぶらだったし。

ポケットに入れているとは考えにくかったので。

「いいですよ、俺ので撮ってすぐ送りますよ」

「で、でも……」

彼女が承諾するのはわかっていた。

ここで「取ってくるので待っていてください」などと人を待たせることができる性格ではないからな、山下さんは。

しかしまあ、俺はいったい何をしているんだ。

そう、きっと疲れているのだ。疲れすぎて少々おかしくなっているに違いない。

「じゃあ、撮りますよ」

「お、お願いします」

こちらを見て、ちょっと困ったように微笑む山下さん。

なかなかいい感じの一枚が俺のスマホにおさまった。

「撮れましたよ。こんな感じでどうでしょう?」

「見ます、見ますっ」

ぞろりと大きな白衣を着たままで、山下さんはひょこひょことこちらへかけよってきた、と思ったら――。

「ああっ……」

床に這わせたコードのケーブルカバーに躓いた。

「大丈夫ですか?」

咄嗟に、よろめいた彼女を受け止める。

「大丈夫ですっ……すみません、ありがとうございます」

ひどく恥ずかしそうに小さくちいさくなる彼女。

その腕を、その肩を、離したくない衝動に駆られた。

「あのケーブルカバー、古くなって劣化していて。すみません」

誰かが躓いたら危ないので新しいものに替えて固定しなおさなければと前から古賀先生に話していたのだが、作業が後回しになっていて。

「いえ、そんな……私のほうこそ、やっぱり合わない靴はダメですかね」

苦笑いする山下さんは頬がほんのり上気して、やっぱり瞳がうるんで見えた。

この人は、やっぱり……。

「山下さん」

「はい?」

俺は先ほどから気になっていたことを、思い切って聞いてみた。

「少し飲んでいますね?」

「えっ」

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