博士と秘書のやさしい恋の始め方
そうして戻る途中――。

「昨夜はありがとう。楽しかったわ」

「俺のほうこそ」

エレベータホールから聞こえる男女の会話に、私は咄嗟に気づかれぬよう身を隠した。

直感でわかった。

男性の声は田中先生。

そして、女性のほうは喫煙室にいたあの人だろうと。

私はまるで壁に同化するかのごとくぴたりと背中をくっつけて、二人の会話に思いきり耳をそばだてた。

「今度は俺のところにも来てください。手料理を用意しておくので、よかったら食事していってください」

「ありがと。アタシのところにもまた来てよ。あの時間なら旦那もジムに行ってていないし、子どもも寝かしつけたあとだから」

何、これ……。

心が凍りついてかたまった。

パニック、放心状態、フリーズ、思考停止。

何がなんだか、どうなっているというのだろう???

田中先生、さっきの女性(ひと)とつきあっているってことだよね?

でも、旦那さんがいる人なんだよね? 

お子さんまでいるんだよね? 

旦那さんがいないときに子どもさんをほったらかして二人で会ったりしているの?

「アタシには田中クンしかいないからさ」

「俺もです」

静かなフロアに一人の男と一人の女の声だけが響く。

その声だけでじゅうぶんだった。

ふたりが楽しげに微笑みあっている様子が手に取るようにわかった。

エレベータの到着を知らせる機械音が鳴り、ふたりの気配が去っていく。

降りる人もなく、相変わらず静まり返ったフロアにひとり取り残された私。

また、独り相撲……一度ならず二度までも。

私はなんてバカで惚れっぽいのだろう。

勝手に都合よく考えて浮かれていた少し前までの自分が、ひどくみじめで恥ずかしかった。

それにしても――田中先生に限って、家庭のある女性とだなんて……。

本当に、恋は人をどうにでもしてしまうのだ。

そう、あの田中先生でさえも……。


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