博士と秘書のやさしい恋の始め方
翌朝。結局あまり眠れないまま(俺は遠足前夜の子どもか?)、いつもより早く家を出た。

「まだ八時か……」

朝のミーティングが始まるのは、いつもだいたい九時過ぎ頃。

就業時間に入る前に少しでも山下さんとふたりで話せたらと思っていたのだが。

まったく、俺としたことが早く来るにもほどがある。

さすがにこの時間では、いつも一番乗りであろうはずの彼女もまだ来ない。と、思ったら――。

「おはようございまーす。って……えっ、あれっ、田中先生!?」

ドアを開けたまま、山下さんは驚いた様子で俺を見た。

いや、驚いたというより意外そうな表情(かお)といったほうがより的確か。

「おはようございます。山下さんはいつもこんなに早いのですか?」

「いえっ、そんなことは。今日はその……なんとなくです」

ん? ちょっと困ったような恥ずかしそうなその表情はなんだろう?

「そうですか」

「そうなんです」

彼女はようやくドアを閉めて中へ入ると、俺の視線から逃れるようにそそくさと自分の席へ着いた。

彼女の心理が今ひとつわからない……。

しかしながら、決して俺を避けているふうではない。それはわかった。

出張前に感じていた距離や壁がまったくなくて内心かなりほっとした。

出張の間、ネット上ではそれまでどおりの親しさで自然にやりとりができていた。

しかしながら、それは相手の表情が見えない文字だけのやりとりでもあったし。

実際に会ったら案外ぎくしゃくしてしまうのではないかという不安があった。

けれども、それはどうやら俺の杞憂だったらしい。

< 93 / 226 >

この作品をシェア

pagetop