博士と秘書のやさしい恋の始め方
「こちら、先生が出張中に届いた郵便物です。あとは伝言が何件かありました」

山下さんはすぐに、俺が不在の間にきた郵便物やら伝言やらをデスクへ持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

普通ならそういったものは本人の机の上にどんどん置いていけばよいのだろうが。

なにせ、ずいぶん片付いたとはいえ俺の机上は相変わらずの混乱ぶり。

紛失したりせぬように、気をつかってまとめて預かってくれていたに違いない。

まったく、本当に申し訳ない限りである。

「田中先生こそ、今朝はどうされたんですか? 私、てっきり布川先生がいらしているのかとばかり……」

なんだ、そうか……。

中にいるのは布川先生だと思ってドアを開けたら、想定外に俺がいたから。

恥らっているように見えたのは、勘違いをしていてなんとなくばつが悪かったというわけか。

なるほど、納得。

「出張明けでいろいろと整理しなければならない仕事が山積みなので」

この嘘つき野郎が……と、心の中で自身に向かって毒を吐く。

いや、実際こまごまとした仕事がたまっているのは事実なのだが。

そんなことより何よりも、あなたと会って話したくて。

率直にそう伝えられないのは、あなたを困らせたくないから……などという立派な理由ではない。

単なる俺の臆病さ。拒絶されたらと思うと、怖くて一歩踏み出せないというだけだ。

「そうなんですね……。出張お疲れ様でした。あ、旅費の精算などはまだ急がなくても大丈夫ですよ。あと、私にお手伝いできることがあればなんなりと」

嘘つきの意気地なしに向けられる彼女の明るい笑顔。

俺はその柔らかな光に目を細めるように、彼女が纏(まと)う優しい気配を静かに見つめた。

「あ、そうそう。私、1号棟の近くで“サバ白”らしき猫を見かけたんです。ここからけっこう離れているのに。猫の行動範囲ってどんなもんなんでしょう?」

「意外と我々が思っている以上に広範囲なのかもしれない」

「ですね」

この感じ、この距離感。穏やかに流れる時間に、心が温かく満ちていく。

ようやく平穏が戻ってきた。

もう失いたくはない。脅かしたくない。

やはりきちんと話をしよう。

他力本願はいいかげんもう卒業して、自分の意志を持って相手ときちんと向き合おう。

そう決めたのだから。
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