simple
彼に付き纏うのは
八木が居なくなり、応接室に漂っていた重い雰囲気と緊張感が徐々に薄らいでいく。
「少し待っていなさい」
坂本は、そう美桜に告げ、部屋から出ていった。
ひとりになると、美桜の身体をがんじがらめにしていた緊張の糸が少しずつ解けていく。
手のひらは、爪痕がくっきりとついていた。
指先は、感覚がわからない程に、冷たくなっている。
冷たくて感覚の鈍くなった手をさすりながら、八木が言っていたことを反芻しようとするが、思うようにいかない。
分かっていることは、大本と塩谷が付き合っていることと、大本から手を引けということだけであった。
その他にも八木は話をしており、一生懸命思い出そうとしていると、坂本が戻って来た。
顔に色が戻った美桜を目にすると、坂本は安堵したように微笑んだ。
美桜の隣に腰掛け、温かい紅茶のペットボトルを美桜に手渡す。
「ありが・・・ざいます」
美桜は、お礼の言葉をカラカラの口内から絞り出したが、上手く言えなかった。
ペットボトルのキャップを開けようとするが、冷えた指先に力が入らず、開きそうになかった。それを見かねた坂本が、美桜の手元からペットボトルを奪い取り、蓋を開け、再び美桜に手渡した。
坂本の好意に甘え、紅茶を口にする。
温かい液体は、喉を通り胃に落ちていく。胃の辺りがじんわりと温かくなり、美桜は、深く息をした。
「ねえ、高柳さん。八木先生が言っていたことわかった?」
「いえ、・・・すいません」
美桜は、坂本の問に、正直に答えた。
「でしょうね。あなた途中から、心ここにあらずだったものね。・・・ねえ、付き纏っているというのは、本当なの?」
坂本は美桜をしっかりと見つめ問いただした。
美桜は、本当のことを言って信じてもらえるのかどうか迷い、答える事に躊躇した。
俯いてしまった美桜を、坂本は悲しそうな目で見つめた。
「あなたは、他人が嫌がるようなことはしないと信じているわ。患者さん思いの働く姿勢や真面目で優しい性格のあなたが、そんなことするとは思えないもの」
美桜は、自分を擁護する坂本の言葉に驚き、顔をあげ、坂本の顔を見た。
「八木先生に、あなたのはずがないって抗議したかったのよ、・・・できなかったけれど。ごめんなさい。ねえ、本当のこと教えてくれる?」
美桜は、坂本の本心を知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
けれど、何をどう伝えればいいのかが、わからない。
そんな美桜を見つめ、坂本は、優しく微笑み、考える時間を与えてくれた。
「付き纏うようなことはしていません」
まっすぐに坂本の目を見つめ、しっかりと言葉に力を込めて答えた。
けれど付き合っていることは言えなかった。
「そう。・・・そうよね。あなたが、そんなことするわけないものね」
坂本は、美桜の答えに安堵した。
「塩谷さんに恨まれるようなことは?」
美桜は頭を横に振り、否定した。
「塩谷さんには、困ったわね。教授の姪御さんだからって、八木先生もふりまわされすぎね。」
「あの、姪御さんって?」
「ふふ。本当に、話を聞いてなかったのね。塩谷さんはね、大学の外科教授の姪御さんだそうよ。うちへの就職は八木先生が、事務部に頼んだそうよ。ただその塩屋さんの就職のおかげで、うちの外科は増員してもらえたようね」
「じゃあ、大本先生と藍子先生は、塩屋さんのおかげということですか?」
「そうみたいね。表向きは腹腔鏡オペの充実と、乳腺外科の標榜と言われているけど・・・。このことは、きっと本人たちは知らないでしょうね」
外科の医局員は足りていない訳ではなかったが、去年の春に藍子、夏には大本と、医局人事としては異例の増員であった。
「今日の八木先生を見る限り、塩谷さんのお願いはなんでも聞きそうね」
坂本は悔しそうな顔をし、紅茶を飲み干した。
「とにかく、今回、八木先生に話をされ、お願いされてしまった以上、塩谷さんと大本先生には、近づかない方がいいわね。できる、高柳さん?」
坂本は、美桜の目を見つめ、尋ねた。
美桜は、頷くしかなかった。
美桜は、坂本に大本と付き合っていることを打ち明けたかった。
けれど、それをするとおそらく坂本は困ってしまうだろう。そしてきっと美桜のために、八木に抗議してくれるであろう。
だから、頷き、この話を終わりに持っていくしかなかった。
しばらく大本と会うことは避けよう。
とにかく距離を置かなければ行けない。
「高柳さん、何、百面相してるの?帰りましょうか」
再び固まってしまった美桜に、阪本は声をかけ、帰宅を促した。
「あ!はい!あの、師長・・・。ありがとうございました」
「私は何もしていないわ。明日は確か休みだったわね、ゆっくりしなさいよ。まぁ、若いから遊びに行くのかしらね」
阪本は、まるで、娘に話しかけるような親しみやすさで、美桜を労った。
そんな坂本の優しさに触れ、美桜は、改めて大本と距離を置かねばならないと思った。
「では師長、失礼します」
「お疲れ様。遅くなってしまったから、気をつけてね。暖かくして帰りなさいよ」
「はい。お先です」
坂本と別れ、美桜は、足早に更衣室へ向かった。
とにかく早く病院から出たかった。
更衣室は誰一人いなかった。日勤者は皆、帰宅してしまったのであろう。
白衣を脱ぎ、周りを気にする必要がないため、下着姿になる。
そして朝脱いだ服たちを順に着ていく。
最後に、ネイビーのダッフルコートに袖を通し、厚手のストールをぐるぐると首周りに巻く。
白衣は、クリーニング籠に放り込み、職員出口を目指した。
歩きながら、携帯のフリップを開き、電源を入れると、大本からメールが着ていた。
今夜は会えなくなった。
彼のメールには、そう書かれていた。
美桜は、今日のデートを断る言い訳を考えなくても良くなったことに安堵し、携帯のフリップを閉じた。
外へ出ると、息が白く、体を芯から冷やす寒さだった。とぼとぼ歩きながら、空を見上げる月がとても綺麗に輝いていた。
美桜は、早く眠りたいと思った。
ふかふかのベッドに身をうずめ、心も体も休ませたかった。
「少し待っていなさい」
坂本は、そう美桜に告げ、部屋から出ていった。
ひとりになると、美桜の身体をがんじがらめにしていた緊張の糸が少しずつ解けていく。
手のひらは、爪痕がくっきりとついていた。
指先は、感覚がわからない程に、冷たくなっている。
冷たくて感覚の鈍くなった手をさすりながら、八木が言っていたことを反芻しようとするが、思うようにいかない。
分かっていることは、大本と塩谷が付き合っていることと、大本から手を引けということだけであった。
その他にも八木は話をしており、一生懸命思い出そうとしていると、坂本が戻って来た。
顔に色が戻った美桜を目にすると、坂本は安堵したように微笑んだ。
美桜の隣に腰掛け、温かい紅茶のペットボトルを美桜に手渡す。
「ありが・・・ざいます」
美桜は、お礼の言葉をカラカラの口内から絞り出したが、上手く言えなかった。
ペットボトルのキャップを開けようとするが、冷えた指先に力が入らず、開きそうになかった。それを見かねた坂本が、美桜の手元からペットボトルを奪い取り、蓋を開け、再び美桜に手渡した。
坂本の好意に甘え、紅茶を口にする。
温かい液体は、喉を通り胃に落ちていく。胃の辺りがじんわりと温かくなり、美桜は、深く息をした。
「ねえ、高柳さん。八木先生が言っていたことわかった?」
「いえ、・・・すいません」
美桜は、坂本の問に、正直に答えた。
「でしょうね。あなた途中から、心ここにあらずだったものね。・・・ねえ、付き纏っているというのは、本当なの?」
坂本は美桜をしっかりと見つめ問いただした。
美桜は、本当のことを言って信じてもらえるのかどうか迷い、答える事に躊躇した。
俯いてしまった美桜を、坂本は悲しそうな目で見つめた。
「あなたは、他人が嫌がるようなことはしないと信じているわ。患者さん思いの働く姿勢や真面目で優しい性格のあなたが、そんなことするとは思えないもの」
美桜は、自分を擁護する坂本の言葉に驚き、顔をあげ、坂本の顔を見た。
「八木先生に、あなたのはずがないって抗議したかったのよ、・・・できなかったけれど。ごめんなさい。ねえ、本当のこと教えてくれる?」
美桜は、坂本の本心を知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
けれど、何をどう伝えればいいのかが、わからない。
そんな美桜を見つめ、坂本は、優しく微笑み、考える時間を与えてくれた。
「付き纏うようなことはしていません」
まっすぐに坂本の目を見つめ、しっかりと言葉に力を込めて答えた。
けれど付き合っていることは言えなかった。
「そう。・・・そうよね。あなたが、そんなことするわけないものね」
坂本は、美桜の答えに安堵した。
「塩谷さんに恨まれるようなことは?」
美桜は頭を横に振り、否定した。
「塩谷さんには、困ったわね。教授の姪御さんだからって、八木先生もふりまわされすぎね。」
「あの、姪御さんって?」
「ふふ。本当に、話を聞いてなかったのね。塩谷さんはね、大学の外科教授の姪御さんだそうよ。うちへの就職は八木先生が、事務部に頼んだそうよ。ただその塩屋さんの就職のおかげで、うちの外科は増員してもらえたようね」
「じゃあ、大本先生と藍子先生は、塩屋さんのおかげということですか?」
「そうみたいね。表向きは腹腔鏡オペの充実と、乳腺外科の標榜と言われているけど・・・。このことは、きっと本人たちは知らないでしょうね」
外科の医局員は足りていない訳ではなかったが、去年の春に藍子、夏には大本と、医局人事としては異例の増員であった。
「今日の八木先生を見る限り、塩谷さんのお願いはなんでも聞きそうね」
坂本は悔しそうな顔をし、紅茶を飲み干した。
「とにかく、今回、八木先生に話をされ、お願いされてしまった以上、塩谷さんと大本先生には、近づかない方がいいわね。できる、高柳さん?」
坂本は、美桜の目を見つめ、尋ねた。
美桜は、頷くしかなかった。
美桜は、坂本に大本と付き合っていることを打ち明けたかった。
けれど、それをするとおそらく坂本は困ってしまうだろう。そしてきっと美桜のために、八木に抗議してくれるであろう。
だから、頷き、この話を終わりに持っていくしかなかった。
しばらく大本と会うことは避けよう。
とにかく距離を置かなければ行けない。
「高柳さん、何、百面相してるの?帰りましょうか」
再び固まってしまった美桜に、阪本は声をかけ、帰宅を促した。
「あ!はい!あの、師長・・・。ありがとうございました」
「私は何もしていないわ。明日は確か休みだったわね、ゆっくりしなさいよ。まぁ、若いから遊びに行くのかしらね」
阪本は、まるで、娘に話しかけるような親しみやすさで、美桜を労った。
そんな坂本の優しさに触れ、美桜は、改めて大本と距離を置かねばならないと思った。
「では師長、失礼します」
「お疲れ様。遅くなってしまったから、気をつけてね。暖かくして帰りなさいよ」
「はい。お先です」
坂本と別れ、美桜は、足早に更衣室へ向かった。
とにかく早く病院から出たかった。
更衣室は誰一人いなかった。日勤者は皆、帰宅してしまったのであろう。
白衣を脱ぎ、周りを気にする必要がないため、下着姿になる。
そして朝脱いだ服たちを順に着ていく。
最後に、ネイビーのダッフルコートに袖を通し、厚手のストールをぐるぐると首周りに巻く。
白衣は、クリーニング籠に放り込み、職員出口を目指した。
歩きながら、携帯のフリップを開き、電源を入れると、大本からメールが着ていた。
今夜は会えなくなった。
彼のメールには、そう書かれていた。
美桜は、今日のデートを断る言い訳を考えなくても良くなったことに安堵し、携帯のフリップを閉じた。
外へ出ると、息が白く、体を芯から冷やす寒さだった。とぼとぼ歩きながら、空を見上げる月がとても綺麗に輝いていた。
美桜は、早く眠りたいと思った。
ふかふかのベッドに身をうずめ、心も体も休ませたかった。