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彼のにおいに包まれて

どれくらいの時間かわからないが、美桜《みお》と彼は、隣に並んで月を眺めていた。

優しい雰囲気を感じさせる彼の隣は、居心地がよく、このまま月を眺めていたいと思わせた。

見知らぬ男の人に話しかけられ、さっきまで緊張していた自分は、いつの間にかひっそりとなりを潜めてしまっていた。


夜風が強く吹き出し、美桜は、身震いした。

「寒くなってきましたね」
震えた美桜に気付き、彼は着ていた黒のカーディガンを脱いだ。

「男臭いかもしれませんが、どうぞ」
「え!いや・・・、大丈夫です!!寒くないので」
「我慢しなくてもいいですよ」
「いや、あの、、でも」

美桜に、カーディガンをかける彼は、月を眺める前の感情の読めない表情に戻っていた。

夜風がふたりを強く吹き付ける。

「雲が出てきたな」
大きな雲の波が夜空を覆いだしていた。
もうじき月も隠してしまうだろう。

「また今度の時にでも返してください」
そう言って彼は入口の方へ歩き出した。
美桜は、カーディガンを彼に返そうと、慌てて肩から外し、追いかけようとしたが、彼はすでに屋上の扉に手をかけていた。

「待ってください!!今、返します!!」
彼に向かって大きな声で叫んだが、こちらを見ることなく、彼は片手を挙げ、手のひらを大きく振り、扉の向こうに消えていった。

彼が居なくなり、居心地の良い空間だった屋上は、夜風の吹く肌寒い空間へとガラリと雰囲気を変えた。

美桜は、訳が分からなかった。
彼の匂いが染み付いたカーディガンを見つめ、なぜ彼のものがここにあるのか。
今度と言っていたが、いつ今度はあるのか。

冷静に物事を考えられるようになるには、時間がかかりそうだった。

トボトボと歩き、自分の部屋へ向う。
癒されるはずの月光浴は、最終的に美桜を混乱の渦に突き落とした。
彼の隣で感じた癒しはあっという間に彼方遠く消え去り、代わりに孤独と困惑が同時にやってきた。


トボトボと階段を下り、自分の部屋の前に来ると、美桜はポケットから、鍵を出し、鍵穴へ挿した。
ドアノブを回し、扉をあけ、内側へ素早く入り込み、鍵を締める。

鍵を定位置に置き、玄関に置いてあるスツールに腰掛け、壁に身を預ける。

「はぁ・・・」
彼のカーディガンに顔をうずめながら、溜息をつく。

「訳がわかんないよ・・・」

久々に、仕事関係や友人ではない男性と話をした。
それだけでなく、あろうことか、ときめいてしまった。

初対面なのに。
一目惚れと世の中の人は言うのであろうか。恋愛経験が浅い美桜は、良く分からない。

美桜は、パチパチと頬を叩き、立ち上がった。
空き缶を勢い良くゴミ箱に捨て、カーディガンを、ハンガーにかけ、おつまみを入れていたタッパーを、手際よく洗い、お風呂の給湯器のスイッチを押す。

彼へのときめきと心のざわめきを、拭い去るようにテキパキと家事をこなしていく。

そうでもしないと、確約のない次の約束を思い描き、心が囚われてしまいそうだったから。

湯船にゆっくりつかり、体を芯から温めてから寝ようと考えながら、美桜は、窓の外へ視線を向けた。


屋上で、優しい光を降り注いでいた月は、半分ほど雲に覆われ、輝きが損なわれようとしていた。


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