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お月様と彼女

屋上を後にした絢斗《あやと》は、階段を軽快に降りていた。

今日の仕事で感じた苦く悔しい思いは、偶然居合わせた彼女と月を眺めたことで、淡く色褪せたものに変わりつつあった。


部屋の前に着くと、窓から灯りが漏れていた。
玄関のドアを開け、見慣れた靴が脱ぎ捨ててある。
屋上へ行く前は不在だった家主であり仕事の上司でもある河合が、帰宅していた。


河合はリンビングで、ビールの入ったグラスを片手にノートパソコンのモニターを睨んでいた。

絢斗は、靴を脱ぎ、河合に声をかけた。

「河合さん、ただいま」
「あー、絢斗。おかえり」
「今日は現場?」
「おー。だから、こんな時間になっちゃったよ。絢斗、何してたの?そんな薄着で」

河合は、モニターから視線を外し、薄着で帰宅した絢斗を見た。

「お月見。上着は、貸した」
「おまえ屋上好きだね。って、貸したって誰に?」

絢斗は、冷蔵庫のドアを開け、缶ビールに手に持つ。
屋上で出逢った彼女が、豪快に缶ビールを飲んでいた後ろ姿を思い出す。

「屋上に居た人。河合さん、ビールください」
「おまえ、生活費入れろよ・・・。おまえ以外に屋上好きがいるんだな」

絢斗は、ビールをグラスに注ぎ、おつまみが入っている籠から、ピスタチオの袋を出す。


「ここの屋上、良いところだよ。ピスタチオいただきます」
「おま!・・・まぁいいわ、食え。屋上ねぇ。月とか星とか眺める趣味がないから、そういうの俺には良くわかんないわ」

「癒されるよ」
「俺は、月とか星とかより、女の子に癒されたいね。ところで、今日のオーディションどうだったの?」

絢斗は、ビールの入ったグラスとピスタチオを持ち、河合の横の椅子に腰をおろした。

「良かったら、すぐに報告するよ」
「ま、そうだわな。次頑張ってください」

絢斗は、今日の昼間、連続ドラマのオーディションに参加していた。演技が好きで、芸能界に入り5年が経過しようとしていた。

映画、ドラマと出演はしているが、大きな役どころは演じたことがないし、相手側からオファーが来るほど売れてもいない。

今日のようにオーディションを渡り歩き、なんとか芸能界にかじりついている。

生活は、もちろん苦しく、先月ついに家なしになった。
同居していた俳優仲間が、この仕事に見切りをつけ、実家のある田舎へ帰ってしまったからである。

絢斗のように売れていない俳優の稼ぎでは、まともな部屋が借りられるはずもなく、マネージャーである河合の家に転がり込んで、2週間が経とうとしていた。


河合は、ビールを飲み干し、空になったグラスを持ち、キッチンへ向かう。

「絢斗、飯食べた?ロケ弁あるけど」
「食べた」
「あそ。それなら、俺様は、独りで楽しく食べるとするかなー」

河合は、ロケ弁の蓋を外し、中身を皿に移し替え、レンジの中に、それらを押し込めた。

「河合さん、オーディションないかな?」
「おー、また明日事務所で、相談するか。とりあえず、今日は仕事の話お終いにしよーぜ」

レンジが鳴り、河合は、皿を取り出し、再び絢斗の隣にやってくる。
皿の上には、白飯、油のきつそうな唐揚げと、卵焼きがのっている。

「唐揚げ好きだね、河合さんて」
「どうせお子様の舌だよ、35だけどな!」
「そんなこと言ってないよ・・・」
「うるへー!」

唐揚げで口の中をいっぱいにした河合を見ながら、絢斗は、ふんわりと微笑んだ。

河合の向こうにある窓に目をやると、今にも雲に覆い隠されてしまいそうな月が、絢斗を見ていた。


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